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Doracco翔甲   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 Q以来のウルトラ神話は、演義なる数多の神話の高峰に位置することになろう。そして流転の象徴として、神聖への犠牲として、数多の獣たちは数多の星々と同位に目されるだろう。
 ウルトラマン第二十五話「怪彗星ツイフォン」にDraccoドラコは登場する。地球近くを通過する彗星ツイフォンから飛来した宇宙怪獣で、頭部には1本の角、扇状に開閉する飛蝗のような翼を二枚持ち、白線状のひび割れ模様が走っているタイル張りのような黒い硬質な体形(どうしても濃緑の蛇紋岩を想像させる)に、腕部は鎌状になっており、空中から高速で飛来して切りつける攻撃を得意としていた。
 Draccoドラコはいかにも希少である。知る人ぞ知る翔竜型で外観はよくまとまっている。甲殻類というよりは甲虫類の肌合いと脆そうで不気味な羽を持ち、少々、鬱屈した少年のような眼が実にいい。レッドキングやゴモラのような主役になどなる気もないどこ吹く風の脇役。茶目っ気があってちょっぴり寂しげ、だから夕暮れまで一緒に山野を走りまわりたい、少年の盛夏に一匹はいてほしい翔甲、それがDraccoドラコである。

 天蚕の渋緑の訪問着をふわりと着こなして、待合室の席奥で半ば居眠っている老女。当時、八十二歳の私の母が孫娘の挙式に臨んだときである。
 花嫁となる姪は生まれも育ちも福島県の中通りで、お相手も挙式場であるホテルも郡山ということであれば、洛西に寝起きしている不肖の叔父である私も、早速に東下りに奥州入りと相成った。
 大人の女は留袖ばかり、最近は当の花嫁でさえもウェディングドレスの次のお色直しに黒々妖艶な留袖を披露するらしい。そのような留袖の大人の女である来賓や親族が居並ぶ奥に母を見つけた。あたりまえだが母は見慣れている。しかし母が着ていた着物は、衣服について門外漢の私だが、絹の光沢と感触はネクタイの締めと外しで毎日のようにお世話になっているので、抜群に優美であることを直感できた。渋緑と書いたが鈍重な暗さは微塵もなく、光線のあたり具合によっては肩や袖が燦々として淡緑に見える。母は彼女の世代としては長身痩躯の方で、亡くなって十年経つ父が酩酊すると「母ちゃんは若い頃は石田あゆみにそっくりだったよ」と茶化していたものだ。そんな痩せぎすで目つきの鋭い母を、レタスに包まったようなふっくらと柔和な婆さんに見せてしまう着物があったのだ。私は織部釉の茶碗を手にしたときのような感慨で賛美を素直に伝えた。 
「これは天蚕って言ってね、天然のお蚕さんの繭からとった絹なのね。(人差し指を立てて)幼虫が綺麗な葉っぱ色でね、これくらい大きくて…って言ってもお蚕さん自体を見たことないか…どちらにしても高価なのね。これは混ぜもんだろうけどね」
 私はくすんだ銀の照りを見せる薄緑の袖に指をのせて思った。蚕の幼虫が吐き出した糸を身にまとうという不思議がある。我々が鉄骨に住みアルミニウムに乗っている生活にあっても、身体を守っていてくれる素材は今更ながらこういった有機物なのだ。少々嬉しそうな母を見てさらに思った。世の中には女性の年齢肌、年齢姿勢、そして年齢に左右されない眼の輝き、そういった女性の本質美に合わせて自然から頂いた素材があるのかもしれない。
 京都へ戻った私は、さほどの時を経ずに三島由紀夫の「絹と明察」を手に取った。再読の後に田中美代子の解説で、真の主役は主人公の駒沢の病妻房江であろう、というくだりで唸った。小説中、紡績会社の社長夫人である房江は宇多野でひっそり療養している。しかし圧倒的な存在感で迫ってきて、結して大袈裟ではなく、この国の女とは、この国の絹(あるいは絹的なのもの)とは、そして日本とは…と熟考させられはじめた。それもこれも母のおかげである。母が着ていた絹のおかげである。
 天蚕(昆虫綱、鱗翅目、蚕蛾上科、山繭蛾科)は我が国在来の代表的な野蚕で、橡、柏、白樫などの葉を食物として全国の山野に生息している。一化性で、卵‐幼虫‐蛹‐成虫の完全変態をして卵の状態で越冬する。天蚕糸は光沢が優美で、太く、伸度が大きく、織物にして丈夫で皺にならず、暖かく、手触りもよい、などの優れた特徴があり繊維のダイヤモンドにも例えられて珍重されている。
 通常の家蚕との違いは幼虫時に著しい。天蚕は体重が家蚕の三、四倍で、体色は鮮やかな緑色で剛毛を持つ。移動性が大きく孤独を好んで群集性はない。脚の把握力が強くしっかりと水を飲む。
 どうでしょう、天蚕がDraccoドラコに、Draccoドラコが天蚕に見えてきたでしょう。

                                          了
絹と明察 (新潮文庫)

絹と明察 (新潮文庫)

  • 作者: 三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1987/09/25
  • メディア: 文庫



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L'agone水底   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 Q以来のウルトラ神話は、演義なる数多の神話の高峰に位置することになろう。そして流転の象徴として、神聖への犠牲として数多の獣たちは数多の星々と同位に目されるだろう。
 海底原人ラゴンの口許はどこかオバQに似ている、と思ったのは私だけではないだろう。オバQに分厚い唇は肝要であった。日本人にとって分厚い唇は、南方やアフリカの種族のそれ、そして鯉や鯰のそれを連想させ、肉感的で豊穣、晴朗にして安穏な象徴のひとつとなった。オバQという子供受けする幽霊キャラクターには、真ん丸な眼と分厚い唇が絶対に必要であった。
 若芽のサラダとか酢の物に箸をつけるとき、その深緑の重なりのつやにケロニアの断片を想像してしまう、私はそういう少年、さらにそういう青年だった。にきび面が頬杖をついての夢見がちを通り越して、成績が低迷している営業マンの酔眼は、現実から遥か逃避してビルの暗い屋上で膝を抱えている吸血怪獣ケロニアを見ていた。ところでケロニアが何故にラゴンの項を邪魔するか?それはケロニアの葉っぱ頭のオバQ顔を見てもらえれば一目瞭然。

 存在が先行する。存在が先行するために、存在が「見えなくなった」とか「指先に感じられなくなった」とか「音が聞こえなくなった」とかで、我々は「なくなった」という抽象的な総称を得る。なくなったことは我々にとって時間経過を強制する。全てのニュートラルな状態とは、時間経過の記憶を辿ってかつて先行した存在の再現でしかない。このニュートラルな状態を厳粛に「無」と名付けた人達がいる。これこそ無憂慮ではなかっただろうか。些か短絡で悲観的な人達だったのではないかな、と思ってしまう。

 さてもこれから海外でかなえたい夢とやらを書かなければならない。山好きならエヴェレストへ登頂したい、海好きなら珊瑚海へ潜りたい、などと明確に闊達な弁を並べられるのだろう。勢いのままに倣えば、私の場合はニューカッスルのセント・ジェームズ・パークにて、前半は時折、小雨で後半は快晴、という勝手なコンディションにあって、縦縞の選手たちを日本語で応援することである。しかし、これは夢というほどでもないし、この程度のことが夢であっては、まさに人に生まれてきた甲斐性を自分で疑ってしまう。
 林住期という言葉は、五木寛之によって改めてもたらされ、静かに中高年層に浸透してきていると思う。五十歳から七十四歳までの時期に、自分が本当にやりたかったことを見つけてやる、ことと規定されるだろうか。斯く言う私自身が、四十五歳でサラリーマンを辞して、翌年から自営を開始した身であった。あれから六年、さらりと人生五十年の節目を過ぎてみると、海外でかなえたい夢というものは、禅問答のように私を構えさせてしまった。
 そして私に三島由紀夫の「暁の寺」のカルカッタの場面が点滴のように落ちてきた。それはヒンズー教の山羊を生贄にする詳細であるが、大方は遺作「豊饒の海」の主題を第三巻「暁の寺」のこの場面にあるとしている。三島が残る安穏とした日本文化に言いたかったことも、そこから続くベナレスとアジャンタの項にあるという。若い私は啓示を得ようと何度も際どい項を追った。自分も行って見なければ、と思うやいなや、美味しい物や清楚な日本女性やエアコンなどといった現実が脳裏を覆った。そして世紀末には遠藤周作が壮絶なベナレスの「深い河」を残して逝った。あの頃、海外でかなえる夢とは、貪欲な成功や経済力の謳歌と同義だった。たしかに二十五歳から四十九歳の家住期にある青年にとっては、海外でかなえる夢とはある種、貪欲で旺盛なものであるべきであろう。
 林住期にある私に明滅した海外の風景は、三島の「暁の寺」のカルカッタの祭壇である。何ひとつ楽しくもなく幻滅するばかりかもしれない。しかし高齢化の一途を辿るしぶといだけの備蓄日本にあって、林住期の我々が、海外でかなえて持ち帰ってくる夢の一端とは、こういう苦味と困惑を伴わざるをえないのではないのか。
 林住期の親父たちよ、かつて納得のいかなかったことのために、どうも引っ掛かっていてしっくりこないことのために、海外へ出よう。自分自身のためには言うまでもなく、結して大袈裟ではなく人間全体のために海外へ行こう。

 南仏サン・レオンはファーブルの生誕地だが、三歳時にはさらに山奥マラヴァルの祖父母宅に住まわざるをえなかった。その後、近在の都市ロデーズで父親は商売をはじめるが失敗してモンペリエで一家は離散。生活のために十八歳の教師ができあがり、それはそのまま馬場文雄を想わせる。数学と物理の学士を取得したばかりの若きファーブルは、僻地とはいえ高給なので喜んでコルシカ島のアジャクシオの高校教師として着任する。野にあって反抗する人の転換点の地となる。
 南仏アルマスにて五十四歳のファーブルは昆虫記第一巻を発表する。蝉について研究し始めるとオリーブ油揚げアリストテレス風を実食するに至るはさすがである。
 
 倉吉に極実西瓜あり、甘くて肌理の細かいさくしゃりさくしゃり、ただし根が弱いので連作障害などに気を使わせる。そもそも西瓜の原産地は南ア北西ないしナミビア南東のカラハリ砂漠、原住民の生活には欠かせない。

 我々の異邦人に対する意識というものは、今もって警戒の域から両足を抜ききっていない。片方の踵はたえず構えている。そうかといって、油断大敵を枕に睡眠不足なわけでもない。大陸から遠いお陰もあってか、他国に比して悠々と就寝できてきたと言えよう。しかし片方の踵は構えている。そして現実の方向によって適当な構えが必要なことは、誰もが理解している気分がこの国なのだ。
 問題は視点のあり方だと思う。視点のあり方によって、異邦人に対する意識というものが、招来を喜ばしく思える大歓迎ならば、その視点を見極めなければならない。そして見極めた視点の先にあるもの、それは加害者意識なのではないだろうか。温もりある握手を求める被害者意識から、冷徹な距離を保つ加害者意識へ転じてみたとき、身勝手でおせっかいな干渉と揶揄されながらも、大いなる関わりが見えてくるような気がする。
 我々、日本人に必要なことは、加害者意識である。
  
                                     了
林住期 (幻冬舎文庫)

林住期 (幻冬舎文庫)




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カラマール   Mye Wagner [詩 Shakespeare Достоевски]

 Calamar
 ミゲル・デ・セルバンテスによるラ・マンチャの変態騎士の冒険談、これを読んだことがある、乃至は読んだことがなくても、ドン・キホーテの名を知る人々は地上に数多おられることだろう。しかし彼の妹の遥かなる子孫、もちろんドン・キホーテではなくミゲルの妹の子孫であるが、どうも経年を感じさせない真新しい羊皮紙に綴られた家系図を持ち、セルバンテスの血筋の子孫だというメンドゥーサ家の長男フェルナンド、彼によるお菓子本「タルタ・デ・カリブTarta de Karib」を知る人は果たして何人いるだろうか。毎頁ごとにtartaタルタ(パイ)やpastelパスティー(ケーキ)の写真を配した、七十頁に満たないB5版の冊子の売上を、フェルナンドを知るカルタヘナ中の売店の主たちは、いつも苦笑しながら即答することができた。黄色地に木炭書き風のゴシック書体Tarta de Karibが走る表紙の冊子、これが書籍だけ居並ぶ書店には一冊も置かれず、煙草やマテ茶と一緒に売店に並んでいるのには理由があった。フェルナンド本人曰く「他の料理本なんかと一緒に置かれるのは時間の無駄さ。目の前に広がるカリブのこと、ここカルタヘナのこと、そして彼らカラマールのことを、世界中から集まる観光客にこれらを目敏く知ってもらうためには、こういう売店に置いてもらうに限る」ということだった。
 フェルナンド・メンドゥーサは一月二十日がやってくると三十歳になる。この一月二十日という日はカルタヘナ市の創立日でもある。よって八〇年の一月二十日に生まれたフェルナンドの子供時代は、本人の精神年齢や自覚は別として概ね二十世紀に相当した。その頃は些かお目出度い日に生まれてしまった程度のフェルナンドだったが、新世紀になって 一端の大人として高校の古典教師として赴任した頃から、誰もが知るチューリッヒの食品会社が運営する滞在型の総合病院へ通院するようになった。本人曰く「帰宅するときにカラマールに撃たれたんだ。そう、カラマリ族だよ。見てよ、カラマリ族からお尻のここに毒矢を射ち込まれたんだ。あれ以来狙われ続けて、通算六本をお尻に射ち込まれたよ。ただね、命を奪おうという気はないみたいで、毒矢の毒も蛙の毒のような強烈なものじゃないんだ。ずっと考えていたんだけれど…警告だったんだね」との言によってTarta de Karib作成の運びとなった。
 カラマリ族はCalamarカラマールと呼ばれていた先住のインディオである。襲来してきたスペイン人たちは、カリブ語のKaramariの音に烏賊のCalamarをかけて長らくそう呼んでいた。アメリカ大陸における膨大な殺戮の記憶の一つである。彼らカラマールにとっての忌まわしい日々は、ロドリゴ・デ・バスティーダスの上陸から始まった。彼らは戦闘果敢に毒矢や火矢を射続けて激しく抵抗した。血族を残す家系は今でも勇敢さを誇っている。しかしロドリゴからペドロ・デ・エレディアまで、延々三十年に渡る抵抗の記録も、カルタヘナ市創立の一五三三年一月二十日に呻き声を引きずりながら途切れる。多くが内陸部の奥へ移動を余儀なくされるか、漕ぎ手や運搬者として隷属するしかなかった。かくして近親の部族の写真をもってカラマールの往事を想像するしかない昨今、なんとメンドゥーサ検事の長男が、市中にあってカラマールから毒矢を射られたと言いだしたのである。
 フェルナンドを幼い頃から知る院長は、串のような細い矢で傷つけられた臀部の写真を見て「フェルナンドお坊ちゃまの登校拒否はまだ続いているようだな」と呟いた。リマからやってきたばかりの若い精神科医は、カラマリ族が狙っている時刻や聞こえたという内容から薬物使用を疑い、矢の毒を分析すると称して徹底的に血液検査を行ったが、滞在治療の水準を欧州並みと自負する当院も検出には至らなかった。そしてアロンソ・メンドゥーサ、つまりカルタヘナでは名士でもある彼の父は、例によって悠長に構えて誰よりも冷静に「しばらく投与してみてくれ、安定剤でも、Chocola Caliente(ホット・チョコレート)でも、何でも構わないから」と言ってPlaya Blanca(白浜)の賑わいに目を戻した。

 メンドゥーサ父子が卓を挟んで昼食をとるのは久しぶりだった。店は旧市街に人目を避けるようにあるLa Perlaというペルー料理店だった。「折り入って話したいことがあるので」と連絡してきたフェルナンドは、メニューを凝視する父に向かって放り込むように言った。
「僕がここでいつも注文するのは、Ensalada Nikkei(日系サラダ)とSquid tinta ravioli(イカ墨のラビオリ)、Nikkeiっていうのは日本人移民のことだよ」
「それくらいは私も知っているよ。ここは日系ペルー人がやっているのか?」
「どうだろう…女友だちに連れてきてもらって、気にしたことはなかったよ」
「女友だちができたのか…お菓子の本を作ってみた後は、その女友だちと合作のペルー料理の本かい?」
 白髪で美男のアロンソはそう言って仰け反るようにメニューを手放した。
「私もそのNikkeiとラビオリを試してみよう。さて、折り入って話したいこととは?まさかブェンディアーノ大佐がカラマールを追い払ってくれたわけでもあるまい」
「カラマールの研究は続けていくよ、カラマールの誇りは見習うべきだと思うので…もちろん、父さんのことも尊敬している…」
「まったくおまえのカラマールには驚かされる。ここの烏賊は大丈夫だろうな…」
「父さんが驚くなんて…もちろん、母親がいない分だけ、多忙な父さんに心配をかけ続けてきたのは…申し訳なく思っているよ」
 父アロンソは微妙に狼狽したらしく、俯くようにメニューをまた取って開いた。
「本当に僕は愚かだった、叔母さんのヘアピンで自分の体を傷つけるなんて…父さんに反抗するにしても、もっと男性として…やり方があったと思う」
「私だって驚く…驚かないのは検事の顔で、今の父親の顔としては多分に驚いている。カラマールが毒矢を撃ってきたときには、マコンドの地図などを作っていた読書三昧の息子に、砦で踊って自決した親父の体質が現れたと…」
 フェルナンドは萎んでいくような父を見て目を泳がせるしかなかったが、熱い息を呑み込んでから角を突きあわせるように俯いた。
「父さん、結婚したい女性がいるんだ…さっき話していた女友だちで、日本人なんだ」
「そうか…ペルーの日系人かい?」
「Yokkaichi(四日市)から来た日本人だよ」
「Yokkai…そこは日本なのか?」
「Goddzilla(ゴジラ)が上陸した港湾で…ここと同じで魚や貝が美味いらしくて、子供の頃は夜の波止場で烏賊を釣っていたそうだよ」
「Goddzillaは聞いたことがあるが…」
 父は一仕事終えたようにがっくりと仰け反って店内を見まわした。そして息子に午後の予定を訊ねてから膝を軽く叩いた。メニューを振りかざしてシャンパンを注文したが在庫していない。仕方なく、いつものAguardiente Blancoを注文するメンドゥーサ検事だった。

                                       了
誘拐の知らせ (ちくま文庫)

誘拐の知らせ (ちくま文庫)

  • 作者: G・ガルシア=マルケス
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2010/11/12
  • メディア: 文庫



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天府にて   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 サリカと巳緒(みお)は、丼鉢のような大きなアイスクリーム缶を、突き合わさせた膝の上で互いの左手で支えながら一本のスプーンで味わっていた。
 そこは天府、マレー語でいうクアラルンプール、その頃では世界最高を誇っていたペトロナス・ツインタワーを振り仰ぐ店舗回廊の入り口である。正午を過ぎたばかりだった。二人の純白の綿シャツの袖は、灼光を避けるべくか普段のように長い。そしてタイでの合掌に慣れ親しんだ二人には、恐る恐る見上げるツインタワーの尖端は異教の象徴に見えていた。
「ワイをしても」とサリカはスプーンを休ませて言った。「手を合わせても、笑ってくれるだけ…言葉が通じにくいのは分かっていたけれど。先生は言っていたでしょ、南アジアではワイは通じる、先生の日本でも分かってもらえると」
「ここは違うわ」と巳緒は陽を斜め見て言った。「ここは都会でもバンコックとは違う。バンコックよりも英語が通じる…イギリスの植民地だったからね、この辺りは。ここなら日本よりもタイ語が通じると思ったの?」
 サリカはうな垂れるしかなかった。十六歳になった彼女にも分かっていた、その道では孤立言語として分類されるタイ語が隣国では通じないことは。生まれ育ったのは標準的なタイ語が話されるチェンライ県メースワイ村、そこにあるヴィタヤコム中学校を卒業して首都バンコックの日系繊維会社の現地工場に就職して八ヶ月、儚い若さと美貌を赴任していた「トウキョウの人」に賞賛されてハイヒールとブレスレットを買って貰い、先月初めにはパスポートを作成して「トウキョウの人」とシンガポールを観光旅行できた。そして先月末になると「トウキョウの人」は日本へ帰ってしまった。
「どうしてここだったの?」
 ヴィタヤコム中学校の教師勤めも七年めを過ぎていた巳緒は、預けられたスプーンを缶ごと押しつけ返すようにして聴いた。
「どうして…よりによって日本人なんや、ほんまに…」
 巳緒は思わず日本語で呟いてしまった。そして教え子の白い首筋の僅かな日焼けにそっと右手を伏せる。漏らしてしまった日本語の先にある記憶、それは赤錆色の汚れ溜りが縞をなしている水色の波トタン屋根のリス族の住まい、狭い部屋の壁に貼られた褪せた男女の写真だった。かつて人類学者を装った日本人の若い男がメースワイ村に現れた。男は竹笛ばかり吹いていて女子供を集めていたが、少しずつ農作業を手伝うようになって長老たちにも認められていった。多忙と察過を極める日本では信じられぬような拍子で、男は村一番の怜悧な美少女を妻に娶とり、翌年に女の子が産まれ三年後にサリカが産まれた。彼女の父親は「トウキョウの人」なのである。小太りで色白の父「トウキョウの人」は、サリカを一度も抱き上げぬうちに姿を消してしまった。
 サリカは一口掬って放り込んでから缶をそっと押し返した。
「日本語って世界一難しいんでしょ?」
 巳緒は随分前に自分が教室で語ったこと、それを大人の女になったような教え子の口から聴いた。シャツの襟に焦燥に似た汗ばみが滲んだ。
「あたしはアホウ(阿呆)でした。先生はアホウでした」
「アホウ?アホウってよくない日本語なんでしょ?」
「日本人はね、殆どの日本人はね、英語もまともに話せないくせに、自分の国の言葉、日本語が世界一難しい、なんて本当に信じているの、他の国の言葉を学ばないで、比較する外国語を机上に並べもしないで。こういう日本人をアホウって言うのよ」
 サリカは沸々と噴出すようにすすり泣きはじめた。
「日本の男はアホウばっかり…前にも話したかもしれないけれど、先生の実家はね、羽曳野という町で花屋をやっているの。今でもなんとかやっているようだけれども…父は痛風とかでアホウのように動かないから、朝早くから忙しくしているのは母だけ。聴いてる?そもそもさ、花屋を始めようなんて言いだしたのはアホウな父なんだよ。ソウル・オリンピックの年だったな、銀行員だったアホウが勤めをやめてさ、祖父ちゃんの葡萄園を売却しちゃってさ…」
 巳緒はそこまでタイ語を置くように語ってから唇を噛んだ。
「だからさ、そんなアホウの息子たち、それに孫たちもやっぱりアホウなんだよ。タイに来るのにさ、ワイとトムヤムクンで済ませようと思っているんだからドアホウなんだよ、日本の男は、トウキョウの人も、カンサイの人も…」
「世界一難しいのは…タイ語?」
 巳緒はもらい泣きした鼻水を啜り上げながら苦笑した。
「そうだね…母音だって九つあるし…校長が言ってたけれど、あたしの声調だって未だに変なんだってさ。聴いてる?まっ、仕方ないか、アホウの娘だからね」
 サリカがまた沸々と笑った。そして夕暮れが降りてくるまで「アホウ」と「ドアホウ」の使い分けに執着していた。

                                       了
あつあつを召し上がれ (新潮文庫)

あつあつを召し上がれ (新潮文庫)

  • 作者: 小川 糸
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2014/04/28
  • メディア: 文庫



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林百貨店の社   梁 烏 [詩 Shakespeare Достоевски]

 そのツォウ(鄒または曹)族の娘は、阿里山の麓からやってきた。文化人類学者の勝手な分類では、阿里山中腹に住み続けてきた北部のツォウ族は「阿里山ツォウ」と言うのだそうである。クバという男子集会所を中心とした厳格な父系社会で、そのツォウ族の娘も随分と厳つい頭目を遠目に見て生活してきた。そして目鼻立ちが明確な美男美女揃いで、そのツォウ族の娘も随分と美しかった。
「はあ…そうなんだ、日本語が分かるんだ…」
 肖蘭(ショウラン)は思わず日本語で呟くように言ってしまった。
 そのツォウ族の娘は震えるように頷いた。そして強い眼差しを慌てて肖蘭の尖った爪先に戻した。
「何か話してみせてよ…そうだな、あたしの日本語の台詞とか」
 そのツォウ族の娘は、戸惑いをかなぐり捨てるように頷いた。そして慌てて腕を胸元に組んで背筋を立てた。
「あたしたちぃ…あたしたち日本人はね、華人はちょっとは認めているけれど、あなたたち蛮人は認めていない。人として認めていないんだよ!」
 肖蘭に酷似した声がダイニング・テラスの隅々まで響き渡った。彼女たちの傍らを過ぎる客を硬直させた。
「ほぅ…そうなんだ、政子が好きなんだ」
 肖蘭の退屈だった一週間の終わりに油滴が落ちた。飴色の確かな油滴だった。そして背後で驚愕しているマネージャーを仰ぎ見ながら言った。
「そうか…なるほどね、製糖工場の意地悪な奥さまが好きなんだ」
「肖蘭さんが…肖蘭さんが演じられた政子は大好きです」
 そのツォウ族の娘は、胸元を上下させて呑み込むように言った。
「そうなんだ…あたしも好きだよ、あの政子は、蛮人の友だちをつくりはじめる政子は」
 肖蘭はまた呟くようにそう言ってから、黄色い三輪トラックの前で色紙やカメラを持って群れる少女たちに微笑んで見せた。落雷のような歓声が揚がる。押しも押されぬ女優になった肖蘭こと梁鳥優子(やなどり・ゆうこ)は、掃天の晴れに自然な笑顔を向けた。台湾の美人女優だろうが、台湾で売れた日本人だろうが、正直に幸福だった。
 そこは台南の五棧樓仔なる林百貨店の五階である。日本統治時代にあってエレベーターを備えていた末広通りの百貨店は、台北の栄町にあった菊元百貨店と並び南北二大百貨店ともいわれた。戦後は改修されたものの、一九九八年に市定古跡に認定されてから本格的な修復が開始されて二〇一三年に完成を見た。
「そう、あそこをやってよ、政子がオビンと、やがて初子の名前をもらうオビンにお礼を言う場面」
 そのツォウ族の娘は待ちかねていた皿を差し出されたように頬を紅潮させた。
「オビン、あなたの手を見せてちょうだい」
 そのツォウ族の娘は旋回するようにマネージャーに寄って中年太った手をとった。
「オビン、あたしはあなたの、この手が好きよ。流されるあたしを、しっかりと掴んでくれたこの手、この手は命の恩人の手だわ。ああ、しっかりとした父さんのような手だわ。オビン、あたしの傍にいて、ずっとあたしの傍にいてほしい」
 肖蘭はまた虚空を見上げて拍手しそうな手を胸元に翳した。
「いけないわ!オビン、あたしはあなたを拘束しようとしている。あなた達を拘束して、あなた達の自由を奪おうとしている。ああ、あたしは駄目な女、駄目な日本人…オビン、あなたさえ良ければ、こんな駄目なあたしの友だちになってくれないかしら」
 肖蘭は三輪トラックの方へ大きく頷きながら拍手した。間髪を置かずに少女たちの拍手が歓声をもって続いていった。
「そうか…なるほど…で、それで名前をもう一度教えてくれる?」
「玉界(チョウチャ)です」
 肖蘭はしなやかさを誇示するように立つと、玉界の両肩に手を置いて「仍在增长(まだ伸びそうね)」と呟きながら自分の椅子に座らせた。そして玉界の額にかかった髪に触れてから首を傾げる。考査中と思いきや、決めたように反転して少女たちの方へ向かってサインや握手を嬉々とこなしていった。
「玉界、こんな駄目なあたしと働いてみる?」
 玉界は背後のマネージャーに肩を叩かれて啞然と揺れた。
「玉界、この上の屋上に社(やしろ)があるの知ってる?社は神社、日本的神的聖殿(日本の神さまの社殿)…ともかく一緒に社を拝みに行こう」
 肖蘭は手招きながら階段の方へ歩きだした。
「玉界、あたしは政子をもう一度、撮りたいと思っているの…そう、あたしが撮るの、監督で。あそこ、あの社の前、戦前の百貨店の社を政子が拝んでいるところから始まって…あそこ、最後は今の社、だからあそこ、あそこを政子の孫が拝んでいるところで終わる…あなたをここへ呼んだ甲斐があったわ」
 社は屋上の望遠鏡の台座のようにあった。戦前の社は一般非公開の産業の守り神として鎮座していたらしいが、玉界が見る目の前の社は、枯れ樹を模したコンクリートの彫塑のように見えた。

                                       了
台湾・少年航空兵―大空と白色テロの青春記

台湾・少年航空兵―大空と白色テロの青春記

  • 作者: 黄 華昌
  • 出版社/メーカー: 社会評論社
  • 発売日: 2005/09
  • メディア: 単行本



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オードリー・エリス   Naja Pa Sue [詩 Shakespeare Достоевски]

 オードリーの部屋からテムズ川は見えなかった。家賃を分担している同居人、リンダとイングリットからすれば、テムズの小波が臨めるような部屋であれば家賃が払えない。しかも三人がやっと食べているところに、イングリットの「ラヴリィ・ラブラドリー」のヘンリー、そしてオードリーの「ポンド・タートル」のルイ、この大小の二匹が扶養を求めていた。実際にここのところ、ルイの簡素な朝食はヘンリーの耳裏についていたダニが続いていた。それでもヘンリーが度々陥いる境遇からすれば、何かしら与えられるだけでも良しとしなければならない。なにしろヘンリーの飼い主イングリットときたら、分厚いハイデッガーを小脇に抱えて、バッターシー・パークの木陰にゆらゆらと消えたら最後、その晩はもちろん、夏場なら二日間ほど帰らないことなどは度々であった。
 同居しているリンダが、バッターシー・パークの池の辺でジオンゴ兄弟と読み合わせをしていた時も、いきなり植込みから白いコートを着て寝乱れたようなイングリットが枯れ枝を持って現れたので、兄弟は気味悪がってありもしない用事を思い出して逃げてしまった。リンダは家族同然に生活しているのでイングリットの奇行には慣れている。その時はともかく傍らへイングリットを座らせて、まず詩想だか瞑想だかが何日目かを問うた。まだ二日目だったのでリンダは軽く肩をすくめて、ヘンリーはさほどの空腹を感じるまでもなくもう一人の同居人オードリーが買い置いた愛犬用フードにありつけた。
 オードリーがイングリットをワンズワース通りでやっと見つけた時は最悪である。保護された時のイングリット曰く、その通りに面した屋根裏部屋に住んでいる老婆が、時折、ヘルダーリンの霊にとりつかれるらしく、話せるわけもないドイツ語で詩らしき言葉をもらすので、彼女は老婆のもとに五日間泊まりこみ聞き漏らさず書きとめていたのだ、と。ともあれヘンリーは飢え死にするところを故郷アバディーンから戻ったオードリーに発見された。その時、ルイとヘンリーにとっては飼主よりも親身なリンダは、父親の故郷のナイロビの高校で演劇指導をしていた。

「ヘルダーリンの霊に仕立て上げたのはあたし自身なの…」
 慣れきった非難が放屁のように発散しきると、亜麻色の髪を束ねたイングリットは、ベーグルを頬張りながら焦げ茶色のラブラドリーの頭を撫でながら言った。
「彼女の祖母がハイデルベルク出身と聞いたら、あたしの右脳が左のこっちの耳へ古代ゲルマン語の鼓膜を再生させたの…」
 後頭を刈上げたものの垂れた黒い前髪をたえず気にするオードリーは、小蛾の幼虫を沼亀に与えていた。
「あのお婆さんはなんて言っていたの?」
 イングリットは凄みのある上目遣いに変わってベーグルを置くと、トレードマークのようになっている脱ぎ捨てた皺くちゃの白いコートのポケットから手帳を取り出した。
「彼女は売春で検挙された後に半年間ばかり牢獄に繋がれて…ここのところが素晴らしいわ…お金について牢番が教えてくれました、昔は食べられればいいと思っていたので、フラット・フォードの農民に付いたこともある、三日目の晩に農家の主人は林檎酒を振舞ってくれて言った、よく働いてくれているがどのような目的をもってここへ来たのだと、若かった牢番は言った、食べることができればいいと、主人曰く、食べるために食べ物をつくりだす農業や牧畜、確かに我々の仕事は神聖への入り口だ、しかし君と同じような魂胆で穀物取引所で働き疲れた若僧がここで働いたことがある、この林檎酒を飲んで何と言ったと思う、大いなる者へ至る、それがこのように不味いことはそれでいい、しかし、蜂や羊に話しかけても、ウィラーズの給仕やキャノン・ストリートの駅員のように応えてくれやしない。いいわね…」
「哀しいの?…楽しいの?」
「この哀しみが分からないなんて…このあとはね、若かりし牢番が、頑固に自分には神聖も何もなく、食べられればという現実だけに生きるのだと言ったら、主人はわかったと言ったあとに続けて、充分に食べられると仮定する、ところで君は女が好きか?男が好きか?と問うたら、牢番はもちろん女が好きだと答えた」
「つまらない、彼は単なる普通の男じゃない」
「聞いて…主人は頷きながら言った、我々は婚姻する、食べられれば次には婚姻する、ところが婚姻には豚三頭と同額の結納金が必要なのだ、豚三頭そのものでは駄目なのかと牢番が聞くと、農民は構わないと言う、続いて必ず婚姻しなくてはならないものなのかと聞くと、農民はそうでもないと言う」
「つまり結納金だか豚三頭だかがなくても、婚姻届を出さなくても、牢番はその気さえあれば女を愛せるっていうこと?」
「聞いて…つまり牢獄で牢番が彼女に教えてくれたことは、お金というものはフラット・フォードのような農村であれば、豚三頭もしくは結納金というこちらから関係する価値観となるのに、ここロンドンでは、ウィラーズの給仕やキャノン・ストリートの駅員からの言動を待つ…つまり関係される価値観になるのよ」
「お金が関係される価値観じゃいけないの?弱くて関係されることを待っている人は哀しいわけ?甘ったれやさんや寝たきりの老人がそんなに哀しいわけ?」
「哀しみを知らなくては…だって受身の生活、待つ生活に芸術はありえないし、芸術を知らない人間はお金と能動的に関るしか健全な生きかたはないという…これもまた哀しい」
「あなたの言うことに従えば、あたしの田舎、あたしのスコットランドなんて…まったく健在じゃないわ」
「スコットランドは知らないけれど…結局はお金に関らない感性というものだけが、偽善ぶるわけじゃないけれど、次なる生きかた、つまり芸術なんだわ」
「あなたは世俗を見て、世俗を否定し、自分の芸術を高みに据えようとする…あなたはあなたが書く詩のように高尚で結晶化しようとしている…偽善なんて言わないわ、それこそ純粋な悪よ」
 リンダは度々、ルイとヘンリーの飼主の間にも立たざるをえなかった。イングリット・プリンツとオードリー・エリスは、ネッカー川の鯉と北海の鱈とが比較にならないように、飲んできた水から生き甲斐とするそれぞれの芸術の生活との関り方まで違っていた。

 イングリットはハイデルベルクのホテルの長女に生まれて、時折、スウェーデン人や日本人の宿泊客にその愛らしさを称えられながら健康に育った。幼いおりは終日メンヒホーフ広場で遊び、少女の頃は対岸のビルケンバンクの小道から藪に入り込んで、後年のさ迷いを予感させてはいる。まだヘルダーリンという名前はビスマルクとさほど変わらぬ響きであった。すべての甘美な憂鬱は「黄金の羊」の窓辺ではじまる。休暇中のコブレンツの保険屋は相席の礼の後に、イングリットが帰ろうとして閉じた「赤毛組合」を目にして話しかけてきた。彼女は恋愛においても人一倍に没頭した。寝食を忘れて保険屋の初恋だった教師の姿へ近づこうとする。彼女が髪を結い上げてホームズを凄い勢いで通読してしまった頃、保険屋は契約の失敗で塞ぎこみ酒に溺れはじめた。したたかな業界で生きるには優しすぎる男だった。怖れていた時はきた…河岸のマールスタールでの簡単な食事が最後となって男は現れなくなる。コブレンツの保険会社からも姿を消した。二年後、イングリットは講師に薦められたコンラッドの背景を追って渡英した。

 オードリーは就職雑誌のホテルの項目を開いて渡して言った。
「キャドガンから…もう来なくてもいいって言ってきたわ」
 イングリットは恐る恐る左手で受け取って、右手のベーグルを頬のそばで止めたまま声をつまらせた。
「…あたしには、やっぱりホテルの清掃婦の仕事…でもプリンツさんは、もう海に出るしかないのね」
 オードリーはルイの小指ほどもない頭に鈍く光る眼から目を離さずに言った。
「貨物船や原油タンカーに女の子が乗ってどうするのよ?やっぱり海へ出ても、客船の清掃婦…あなたには詩人としての才能があって、ホテルに縁あって生きる運命があるのよ。リンダには芝居書きとしての才能があって、脇役者に縁あって生きる運命がある。あたしには…かりに小説家としての才能があるとして、肉屋に縁あって生きる。素晴らしい運命だわ」
 その頃、リンダ・ファティマは暗くなりかけたナイロビ郊外の校門前で、かつての担任教師から夕食に誘われていた。

 リンダは今でこそ人手に渡ってしまったが、ナイロビ随一の映画館の末娘として生まれ、父と長兄がフィルムをまわす傍や母と次兄がポップコーンを袋詰めする側でこれまた陽気に育った。父はビスコンティに凝っていたが映画の芸術性を説くような気取った風采を見せず、リンダには自分がニ度行っただけのロンドン行きを薦めて、彼女が朗読するオフェリアの台詞を激賞して悦にいっていた。そして十五歳になった夏、ロンドンのビリンガム子爵から招待状がくる。子爵に付きっきりの家政婦が、子爵の支援でアフリカの少年少女から年に一人づつ選抜してロンドンを見せているのだ。とにもかくにもリンダは憧れのピカデリーとグローブ、そしてロイヤル・アルバート・ホールの座席に小さな腰をのせることができた。正式にロンドンで学べるようになると、子爵一家の口添えもあってBBCのドラマへの出演などもかない、「チョコレート菓子」と称えられるままに学生時代を終える。しかし彼女は自分が戯曲を書きたいのだということを、映画館の隅で早くから自覚していた。脇役や演劇指導を続けながら今日まで書いてきて、気がつくと三十一歳になっていた。ニ歳下のイングリットと一緒に住むようになって四年になる。現在のアパートに同棲していた舞台美術家から、チェアリングクロス通りで突然に詩を書くドイツ人女性を紹介される。無謀で放恣、そして勝手に書きとばす詩才にリンダは魅せられて、倦怠感が臭っていた男が出ていくと喜んで彼女を迎えたのだった。

「明日の迎えは今度はあなたが行ってね、また荷物があるでしょうし」
 オードリーはルイが入っている水槽を出窓まで持っていって、素焼きの壷を慎重にずらしながら言った。
「リンダのことだから…あなたが喜ぶようなこういう抽象的なお土産を持ってくるわよ」
 イングリットは頷きながらヘンリーの首輪の下についていた蟎をシャーレに入れたところだった。
「明後日、ここへ…ケニルワースへ行ってみるわ。このあたりは懐かしいし…ありがとう」
「懐かしいでしょうけれど、採用されたらキャドガンへ行く倍の距離は充分にあることはご存知でしょうけれど…おやすみなさい」

 オドーリー・エリスはアバディーンの水道工事の請負業者の一人娘として生まれた。老若混じった配管工を八人ほど使っている豪胆な父と、ロンドンの肉屋で生まれ育った少々繊細な母は、今でこそ二人とも老いて静かになったが、オードリーの十代が終るまでは顔を合わせれば言い争いをしていた。男臭い環境も手伝ってか、あらゆる女性的な興味に距離を置いて高校を卒業すると、重労働ながら収入がいい鱈の加工工場に勤めた。そこで漁船に乗る無口で線の細い少年と出会う。少年は文学の欠片にも無縁な少女に熱くコンラッドについて説いて聞かせた。結婚を約束した互いに二十歳の冬、ターバートネス岬が見えるあたりで大人じみてきた少年が乗った漁船が転覆する。傍目に見れば、彼を失ってからもオードリーの生活には何ら変化は見られなかった。しかし就業後のパブでの陽気な宵からは遠ざかり、コンラッドを何度も繰り返して読みまくり、解説文を載せていたロンドン大学の教授に手紙を書いていた。両親は頑固な一人娘のロンドン行きに反対する気もなく、母の甥、つまりオードリーの従兄弟が経営する肉屋へ当座の職を依頼した。鱈から牛の枝肉に変わっても彼女の精勤ぶりは坦々としていて、休日には故郷を舞台にした漁師の小説を教授に見せて意見を聞き充実していた。そして一昨年の晩冬、教授はオードリーと同じくコンラッドを耽読していて奔放な詩を書く四歳年上のドイツ人を紹介する。イングリット・プリンツは、少々野卑な感じもする少年のようなオードリー・エリスを初対面で気に入ってしまった。同居人のリンダ・ファティマも感性の違いを直感したものの、男性的な立ち振る舞いに魅せられてイングリットが薦めた同居の願いを歓迎した。

「マツォーバ!舌を噛みそうな名前…そう、ムツツゼリ、ムツツゼリ・マツォーバ!知っているわ!」
 イングリットはピカデリー線の座席でリンダの大きな鞄を抱えながら興奮していた。
「そのマツォーバの『戦争の種子』を脚色した映画の主役なんて…その監督とは最初にどこで会ったの?」
 リンダは唇に人差指をあててイングリットの興奮を抑えて、ナイロビまで電話をしてくれた元愛人の舞台美術家に感謝しながら、自分を抜擢してくれた監督に出会うまでを辿りはじめた。
「ヘンリーが珠に世話になる有名なトリマーの店があるでしょ」
「ジルの店?」
「そう、あの店のすぐ近くで、あいつに、一緒に住んでいた男に『スタッフライダー』の編集に携わっていた人を紹介されて、翌週にその人の友人の神父からメイフェアに泊まっていた監督に会わせてもらったことがあるの」
「運命なのよ…オードリーが言っていたわ」
「あの雑誌はマツォーバが度々寄稿していて、監督はすでに『スタッフライダー』自体を、あの雑誌の編集人の生活それ自体を、映画化したいという意欲を持っていたわ」
 イングリットはリンダの事とはいえ、滅多にない喜びの渦中に自分があることを自覚していた。地下鉄の窓に引き摺られる夥しくも弱々しそうな光の群れ。そしてその歪曲した黄光の中に映る人々の無機質な顔に向かって言ってやりたかった。ここに成功する芸術家がいる。午後の地下鉄に満ち満ちている哀愁は嘘だ。リンダを乗せた地下鉄は南アフリカのソウェトの闇を切り裂くだろう。この地下鉄は白い倦怠ばかりを乗せているように見えながら、実はリンダやあの男の子、そしてあそこにもたれている男女など、黒い希望をちりばめて飛んでいる鉄箱なのだ。イングリットは口を半開きにしてあらためてこの乗り物の天井を凝視し続けた。
 リンダはイングリットの視線を恐る恐る遮って言った。
「大丈夫?気分が悪かったら降りる?」
 イングリットは満足げに目を閉じて首を振った。
「公園の藪の中では知らない人に出会うことを怖れながら…実は知らない人に出会いたかった」
「分かるわ、人は慣れて、人は飽きるものだから」
「愚かだったわ、いつも枯れ枝のように鳥や木の葉に耳を澄ませて、守銭奴を罵るばかりの毎日」
「そういうあなたにしか書けない詩があるのよ」
「違う、リンダが映画に映る喜びがあたしを昂ぶらせて、闇の中を突っ走る共感を発見させたのよ」
「この地下鉄のこと?」
「そう、地下鉄、素晴らしい地下鉄…アフリカ、アジア、そしてドイツ、地下鉄こそは故国との別離にも怯まず生活している人が、乗って身を委ね闇の中を突っ走る閉じた箱」
 その頃、オードリーは従兄弟から初めてポンドごとのステーキ・カットの手ほどきを受けていた。

「演技の一から十まで教えてやって、お腹が空いていると思って、キドニーばかりだったけれど週末にはパイをもっていってあげたのに…あの兄弟こそ恩知らずだわ」
 リンダはフィッシュ・アンド・チップスの紙袋をオードリーへまわしながら吐き捨てるように言った。
「そう言わず…白鳥が女王のものだって誰が決めたのかしら…」
 オードリーは揚げ物を摘むでもなくテムズ川で身繕いする群れを見ていた。
「そうね、ジオンゴ兄弟はお腹を空かせている時に、あの白い羽を毟ってローストして食ってしまいたいってよく言っていたわ」
「あたしの姉さん、リンダはやっぱり強くて才能があるわ」
「才能はともかく、ソウェトの女が白鳥を食ってしまう場面を監督に相談してみようかしら」
「そこだけでも早く見たい…そして、来年のクリスマスにはジオンゴ兄弟を『ルールズ』へ招待するといいわ」
「やめて、たった一本の映画へ出演するだけで裏切り者呼ばわりするような連中は、嫌みったらしくからかう気もしないわ」
 オードリーはつられて笑いながらも、ここしばらくテムズ川の辺にあると必ず湧き上る思いに鬱屈となっていた。それは沼亀のルイをこの豊穣な流れに放そうという思いである。一昨年の真夏、トッテナムコート通りからブルームズベリー通りへ至る細い路地で、英語を話せないポーランド人の行商が鶏の雛と沼亀の幼生を黙って売っていた。オードリーは行商の男の灰色の瞳に何人かの漁師を見てしまった。剥き出しの小亀を買い求めていささか乱暴に鞄へ入れる。地下鉄に乗っている間に死んでしまったら、かけておいたハンカチーフとともにまるめて捨ててしまおう。リンダのアパートメント・ハウスへ帰ってみると、ヘンリーはイングリットに珍しくジルの店へ連れていってもらったらしく小奇麗だった。後悔しながら鞄をあけると、翌日からルイと名づけられた小亀はノートの上で震えながら首を出した。あれから一年が過ぎて、ルイは親指大から十本入りの紙巻煙草の箱ほどになった。そして、鱈漁師はやはり岬の波間に消えてしまっていて、三百二十四枚の小説が書きあがっていた。教授は相変わらず細部を指摘していたが、オードリーの胸中では次の小説の女主人公が見え隠れしていた。同時にルイをテムズへ放す思いが痛いように駆け上がってくる。いつか放すだろう、ではなく、今日という日の午後にでも放さなければならない。オードリーが決意して立ち上がると、リンダは肉屋の店員の荒れた手を握って言った。
「あたしのつまらないお芝居…この書き溜めた戯曲の原稿、あなたに持っていてほしいの、これから六年は映画界でやってみたいの、勿論、脇役でもエキストラでも構わないから」

 オードリーが夕刻にグリーンパークで乗り換えると、やはり真中の一番混む車両にイングリットが潰されるように座っていて一心不乱に書いていた。時折、乗客の背の間からボールペンを止めて中空を睨み上げている様子が見える。オードリーは苦笑いしながら鞄から新聞の切りぬきを抜き出した。そして声に出して読み上げてみた。
「ロンドンはもう充分でしょう、あなたも自然の中で働いてみませんか、養豚農家の息子たちはお嫁さんを欲しがっていますのでロマンスはあなた次第、ウェールズのランドベリーでクリスマスを迎えませんか…」
 昨日、オードリーは店の女将から、つまり従兄弟の妻から突然に解雇を言い渡された。生粋のロンドンっ子で主人である従兄弟以上に幅を利かせている彼女は、何度も理由は単なる口減らしで昔から使っている従業員を切るわけにもいかず申し訳ないと繰り返していた。つい先程まで、次の小説のモデルにしようと思っている週に一度顔を出す契約農家の主婦と食事をしていて、また何かと賑やかな裏話も聞いた。オードリーが店の主人である従兄弟に色目を使っていると、オードリーに交際を断られた小男が女将に吹き込んだとか。オードリーは店の噂を書きとめているように見せながら、目の前の病弱な夫を支えて剛健に生活している養豚農家の彼女をスケッチしていた。そして彼女は男勝りの手で新聞の切抜きを渡してくれた。
「…ロマンスはあなた次第か…」
 オードリーはヴォクスホール駅が近くなったのでイングリットの方へにじり寄って行った。珠には駅前でドイツの姉とビールでも飲んでいこうと決めていた。

                                       了
べにはこべ (河出文庫)

べにはこべ (河出文庫)

  • 作者: バロネス オルツィ
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2014/09/08
  • メディア: 文庫



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なっぽレオン   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 尚人(なおと)は樹氷号の車内を舐めまわすように見回した。送迎用のボンネットバスには、防寒姿も万全な十四、五人の温泉客と思しき年配が肩を寄せ合っている。外は凍てつく奥州の晩冬だった。
 尚人は大欠伸をして目尻を滲ませると、飯台に着ききった子供のようにリュックサックからお握りを取り出した。まずは終点の旅館に着くまでに腹ごしらえをする。あとはあちらに到着して、美由紀の有名な妹に面識をもった後は…義妹の相手の男を、先カンブリア紀の化石のようにとっくりと拝まなければならない。義理に則った初物づくしの顔合わせは、今更構えて行ってみたところで仕方なく、相手も生身の人間なら出たとこほいに限る。そう思ってぱっくりと頬張ってみれば、程よく炊かれた飯の間に小梅が覗いていて、梅の朱が窄めた唇に見えたかと思うと、パジャマにエプロンを被ったような妻、美由紀が立ち現れてきた。
 今朝、田無のアパートを慌ただしく出てくるときだった。美由紀はいつも騒然さを楽しむかのように歌っている。夜桜お七の一節、花吹雪ぃ♪~と小節をきかせた声が、元バスガイドの妻ながら演歌歌手の喉使いを思わせる。しかも切れ長の目を卒倒するかのように反らせて、右手の人差し指についた飯粒を、昨夜、息子の指の傷口を含んだ唇で押さえる。お握りを包んだアルミホイールを受け取った尚人は、彼女の薄桃色の唇が自分のものであることに、今更ながら生唾をのみくだしたのだった。
「帰ってきたら…火の国の女がいいな、なんて馬鹿なことを…」
 思い出したついでにそう呟いて独り照れている尚人だった。慌しくもうひとつを頬張れば、なかみは醤油甘めの鰹節だった。
「おかかだよ…くだらない洒落だけど、おっかか様はもらってみるもんだよなぁ。うまいっ、おかかもうまいなぁ。これでもうちょっと機嫌よく送り出してくれていたら…」
 そのかか様である美由紀の妹、これから会う義妹は、花巻の温泉旅館街に鎮座する大規模ホテルで働いていた。芸能部門で「ナポレオン」という芸名で踊っていたのである。
 本人は微塵も恥じ入っていないので声を低めずにいえば、義理の妹である貴美(きみ)は、先週まで「ナポレオン貴美」と呼ばれるストリップ嬢だった。宝塚ばりのベルサイユ宮殿に仕えた近衛隊長姿からゆっくり脱ぎはじめ、福沢諭吉一枚でジュスティーヌの匂いを嗅がしてくれる奥州最後の雪肌とかで、東北の温泉事情におけるその道筋では評判をとっていた。
 尚人は妻が不愉快そうに話してくれた義理の妹に会いにきたのである。尚人にしてみれば、いくら美由紀が不愉快そうに話そうとも、義理の妹のことゆえ機会があれば一度は訪ねてみたいと思っていた。しかし化石探しの貧乏助教授たる尚人が、義理の妹の生身を照覧できることなどはまずもって縁遠かった。美由紀は亭主の足取りに目を光らせているような女房ではないが、自分の用事で岩手と東京を行ったり来たりして、いささか牽制しているふうがないでもなかった。そうこうしているうちに二年二ヶ月が経っていた。
 義理の妹、ナポレオン貴美、ナポレオンとしておこう。ナポレオンから相談したいことがある、という連絡を姉の美由紀がもらったのは二週間前だった。単刀直入に、結婚したい相手がいるので唯一の近親者として会ってほしい、とのことだった。どうやら三年ほど前から、裸商売をやめて結婚してくれという申し出があったようである。そしてワーテルローの戦いではないが、ナポレオンは遂に降伏したらしい。この世で美由紀と最も近似した白肌を独占し、尚人と義理の兄弟になろうとしている男は、岩手山をうろついている世界的な火山学者、ということだった。
「とりあえず様子を見てきてよ、その火山が好きなアメリカの先生とやら」
 美由紀は夏蜜柑を口にしたように眉を寄せて言った。
「ただし、残念なことに貴美の裸の舞台、見納めのお別れ舞台はね、先週だったみたいだけれど…そんなことはともかく、お互い学者なわけね、だって化石探しと火山好きって親戚みたいなもんなんでしょう?」
 遠い親戚ではあるが…尚人はほくそ笑みながらホイールを丸めて握りこんだ。懸念は並べだしたらきりがない。まずは温泉にでも入って温まって、親戚とは程遠い火山野郎と乾杯するだけ…まてよ、尚人はホイールの銀玉をふわりと背後へ放ってしまった。慌てて後ろに拾いにいって、憤慨したような老母と目が合った。
「お母さん、お母さんだったらどっちにしますぅ?お母さんが魚だとして、住んでいる水が急に温泉のように熱くなってきたら…水っていうか、そのお湯の中にそのままいますぅ?それとも、酸素が薄くても頑張って陸に上がっちゃいますぅ?」
 関西からいらした方らしく、銀玉を放り返しながら健やかに笑って手招かれた。
「あんた阿呆ちゃうかぁ?どこに炊かれるまで待っとる魚なんておるかいな。陸に上がれるんやったら上がっとるわ。なんぼ何が薄ぅてもな、火傷は敵わんわ、火傷はあかん…そのうち湯も冷めるやろうし」

 ナポレオンが、配置転換でカラオケ係りとして勤めている大ホテルが見えてきていた。高層二棟を背にした数寄屋造りの瀟洒な正面玄関の前に、疲れたようなボンネットバスはどこか申しわけなさそうに停車した。
「ウェルカムでごぜえます。足もとのスリップにご注意くだせえませ」
 恰幅のいい白髭男が出迎えてくれた。フライド・チキン・チェーンの社長に酷似しているが、実態は初老の日本人のように見えた。ともあれフロントで受付け嬢に「いいところだね」を連発しながら名前を書き込み、ほろほろ鳥の鍋をやめて雀鯛の造りにしてくれるよう確認した。広大な館内を引き廻されるようにして、雪原に煙突ドームのような建物が望める部屋へやっと入れた。
「あれぇは地熱発電所でごぜえます」
 仲居がそう言ったのに頷きながら、暖房がよく効いていて出発が早かったので、夜更かしの尚人は眠くなってきた。それも束の間、性分とは仕方ないもので、地熱発電所の方向へ開いている窓辺で、鞄から仕事をひっぱり出して…みたものの、浪花のお母さんの言が甦ってきてしまった。
「あんた阿呆ちゃうか…そうだな、ボリスの論文なんて…アカンソステガはあかん」
 笑ってくれる人をそれこそ地中深く探さなければならないような古生物学者の駄洒落、尚人はそそくさと浴衣に着替えて大浴場へ向かった。しかし湯に浸かれば浸かるで、血行が整ってきてその気になる。デボン紀の沼ほどではなくともここは大浴場、しかもこの時刻にして他には誰もいない。想像を温水に解き放とう。尚人はもがくように怪しく泳いで熟考していった。失われた生物の尾っぽから、化石馬鹿の想像力を逸らすのは、死を言い渡すに等しいようである。アパートの狭い風呂でも、花巻温泉の大浴場でも、上陸した勇ましい生命、イクチオステガへの想いは変わらない。もちろん美由紀へのそれも変わらない。尚人は毛深い腹をゆらりと浮かばせて呟いた。
「のぼせるから上陸したとか…」
 イクチオステガの上陸の躊躇いを再現していたら、案の定、尚人は少々のぼせてしまった。
 帯も軽く締めて倒れこんだまま横になっていると、仲居が「お二人さんお見えで~す」と賑やかに入ってきた。長身の男女がのっそりと姿を現した。
 ナポレオンは、美由紀が髪を少々切りつめて若々しくなったような二十五歳だった。
「美由紀から似ているとは聞いていたけれど、こうまでそっくりだと…」
 尚人は肌蹴ていた前を合わせながら仲居にビールを頼んだ。
「まいったな…やっぱり最後の舞台が見たかったっていうか、見ていたら美由紀に怒られていたっていうか…何を言ってんだ俺は」
 尚人は上向いた鼻先が妻のそれと相似のナポレオンに話しかけながら、義理の妹の隣で箸袋を折りだした男を見ていた。
 分かっていたことだが日本人ではなくて、どう見ても尚人よりも歳上そうな中年男だった。落ち着かない銀髪まじりのチャールズ皇太子、といったところだった。そして訝りたくなるほど流暢な日本語を話した。
「ウィルと申します。よろしくお願いします」
「義兄さん、ウィルはね、かざんでぇーりゅう、火山泥流っていうのを研究しでんだよ」
「え~とですね、雪のあるところで火山が爆発すると、雪が融けて大変なことになりますね…その研究ですね」
「義兄さんと姉ちゃんは東京にいるがらな、関係ねえげんどな」
 尚人はウィルの白々とした頬を盗み見しながら頷いていた。
「そりゃ大事な研究で…とても親戚とはいえないなぁ。いやぁね、美由紀が化石掘りと火山泥流のスペクタクルを同じように見ているもんだからさ」
 ウィルは折り結んだ袋に箸を置いて餅のような手を振った。
「いいえ、私にしても趣味が登山だったものですから、山登りが地質学者とか、そういうカタガキぃ?肩書きを持っている、それだけで…たまたま学会で日本人の先生から、九州の雲仙を見に来ないかと誘われて、次に雲仙で防災を研究していた岩手の方から、岩手山を見に来ないかと…分かりましたか?」
「よぅく分かりました。それだけ話せるってことはだね、日本で教鞭をとっているんでしょう?」
「岩手では臨時講師で、あとは盛岡の駅前で英語を教えていますが…日本語は母から…母は知念、沖縄の知念の生まれです」
 互いに訝しく構えていた時間が過ぎると、尚人はナポレオンにビールを注がれながら、美由紀の妹らしい明け透けさにほろ酔いしはじめた。
「えっとね、この人ね、オハイオのデイトンだっけ?そう、デイトンという所に生まれて、若い頃はアイスランドで二十年、二十年もいでな、義兄さん、女っ気がまったくなかったって信じられるぅ?その山男が日本に来てな、岩手山に登ってみたら、なんと見ちゃったんだべさ、雪女を」
「雪女ぁ?ああ…そうか、いやぁ、火山学者っていうのは情熱的なんだなぁ。それにだよ、これだけ訛りもしないで日本語を話せるなら、二人の将来は前途洋々、前途洋々って分かる?」
 尚人は頷いているだけのウィルに向かってビール壜を差し出した。
「そうとばかり言えんのよ。問題があんの。それで義兄さんが来てくれるっちゅうから嬉しがったぁ」
「嬉しかったぁも何も、問題って?」
「問題はこの人ウィルじゃなくて、ウィルの兄さんなわけ」
「ウィルの兄さん?」
「迎えに出ていたと思うけど、下足番のテリー、あのケンタッキーの野郎よ」
「ケンタッキーぃ?オハイオじゃなかったの…ま、それはいいけど、あの唐揚げ屋の社長にそっくりなのがウィルの兄さん…」
 尚人は酸欠の鯉のように二の口を宙に浮かした。気がつけば「あさ開き」を持ってきた仲居さんが笑いを堪えている。空のビール瓶を持たせて雀鯛の姿造りがまだか促した。
「雀鯛って最近は普及したよなぁ」
「雀鯛ぃ?ああ、ティラピアね、温水で飼われでいる南米産の鯛の変態ね」
「ティラピアぁ?あれって南米産なのぅ?」
「詳しいのは義兄さんの方でげしょう。そう、ティラピアなんだけど…そいでね、飼われでいるって言えばね、早い話がね、あのケンタッキーも、テリーもね、あれもうちの社長に飼われでいるんだわ」
「飼われているぅ?」
 尚人が聞きかえそうとしたとき、襖の向こうから威勢のよい声が響いた。
「お邪魔するでごぜえます!」
 襖が唸るように引かれると、大皿を持った当のテリーが現れた。尚人はグラスを落としそうになった。
「ぴっちぴっちでフレッシュな鯛のお刺身でごぜえますよ!」
 ナポレオンはウィルの背に隠れんばかりに構えている。なぜかウィルは片膝を立てて両の拳を握りこんでいた。
「あれぇまぁ、親の血をひぐ兄弟のウィル、そして東北が誇る雪の肌、我らが、なっぽレオン貴美さん、ウィルが惚れただけあって、やっぱめんこいなぁ…こちらは?」
「何がめんこいだ…こっちは姉ちゃんの旦那さん、おめなんかどは違う大学の先生だ。それにだ、あたしはナポレオンで、あんたが言う、なっぽレオン、なんかじゃねえ」
「それはそれは…それなら我がランバート家の誇りウィルの火山研究のお仲間で?」
「違うっで、義兄さんはな、魚が陸に上がったときの化石を研究していて…ねっ、ノーベル賞を狙ってるんだもんな?」
 尚人はビールを飲み干してコップを置いた。そして「あさ開き」の四合壜をひき寄せて栓を抜いた。美由紀が自分をどんなふうに妹に伝えているのか…イクチオステガが湯にのぼせて陸に上がったにしても、ノーベル賞候補にさえ挙げられないだろうし、そもそも賞の対象分野ではない。尚人の困惑した機嫌を見かねてか、ウィルは慣れたようにテリーの襟元を掴んで廊下の方へ促した。
「わるい奴じゃねえんだけどぉ、うちの社長、ここの女社長が沖縄で遊んでいるときに拾ったみだいでな…そんで、ウィルもテリーのことを放ってもおけねえもんで、岩手山に登りがてら様子を見にきたんだべなぁ。義兄さん、冷やでいいのがい?」
 ナポレオンは、いやテリーが唐揚げ屋の笑みで言っていた、艶妹なっぽレオンは、お酌をしようと尚人の脇へ寄っていった。
                       

あ・うん (文春文庫)

あ・うん (文春文庫)

  • 作者: 向田 邦子
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2003/08
  • メディア: 文庫



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落人   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 叔父の葬儀は終わった。どこでも、葬儀の際には風穴でくぐもったような読経、拝礼、そして祈りがあるのだ、とホセは思った。どこでも、などと知ったかぶりな己の思いに小さく項垂れる。最初がイカでのマツイ家の叔父の仏葬、そして目の前にしている津和野での吉田清二の叔父の仏葬、日系三世といえども、若年もあってか二度の仏葬にしか居合わせていない。生まれ育ったペルーの乾いた土地では、刑場は無論のこと事故の多い峠道にあって、ひたすらに十字架に祈る姿ばかりが日常だった。
 ホセは縁側で脂汗の額にタオルをあてながら左足首を揉んでいた。焼香時に凄まじい足の痺れに襲われたのである。左足が爪先まで感覚が無くなっていて、膝まづいて虚しい麻痺を引きずっていった。
 断崖を落ちていった叔父の邦生にも、あの痩せた脊髄や白髪の頭蓋にも痛みを超えた麻痺が走ったことだろう。断崖を落ちていった、などと言う劇的な調子は控え置こう。急な斜面ではあったが雑木林の落ち込みで、自分や元気だった頃の吉田清二であれば擦り傷で済んだことだろう。齢をとっていた叔父には奈落だった。不慮の事故は日常の近辺で起こる、ということをホセは祖父マツイから聞いたことがあった。
 その祖父の一族であり吉田清二の外戚にあたる松井盛雄がホセの肩に手をかけた。
「清二さん、清二さんも見よったいう智(さとる)、川に沿って益田の方へ向かったんを見たもんがおるそうな」
 智は亡くなった吉田邦生の長男である。正確にはホセに突き落とされた叔父の聾唖の息子である。四十代半ばながら障害者としての職に就いても続かず、日がな近辺の渓流で釣りをしているという吉田智。ホセにとってはまさに天恵だった、ピスコの街裏で行き倒れていた議員の懐の財布を手にして以来の。
「清二さん、あんたもよくよく運の悪いお人や。石見人としての血ぃかいな…お父さん、勝さんの生まれ故郷を見よう思って、遥々地球の反対側から来られたんに」
 人を疑うということを知らない純血の日本人たちを前にして、天に召されている吉田清二を騙るホセ・ソルデ・マツイは、清二としての運の良し悪しなどよりは、清二も嫌というほど聞かされたらしい「石見人としての血」という日本語が気になった。
 祖父がそれこそ遥々持ち込んできた「石見人としての血」とは、そもそも劇的に放浪する血なのではないのか?その放浪する血が、まさに縁故の地を訪ねて、縁故の血筋の忌々しさに遭遇している…自分の肩に手をおく盛雄も、自分を囲んで随分と悲愴な吉田家の顔々も、自分のこの沸々とした苦笑が、悪徳の哄笑を偽りの清二という仮面が抑えこんだ擬音だと知る由もない。だから血など信じるものではない。
 その擬音に酷似した笑いをもって、追い討ちをかけるように盛雄の妻、美智江(みちえ)が言った。
「なんでもな、落人みたいじゃったって」
「オチュード?」
「そうや、智は長髪いうか、伸ばしきったざんばら髪で、吉田の家には珍しい禿げやから落人みたいじゃったって」
 盛雄は厭きれた以上に怒りをもって妻を睨みつけた。
「何を言ってる。清二さんに落人とか言うても分かるはずないだろう、阿呆な奴ちゃ」
 松井夫妻のやり取りがマツイの父母のそれに似た他愛もないことは感じられたが、ホセは身についていない言葉で日本を伝えようとする祖父の手の感触が蘇った。
「オチュード、オチュードは何ですか?」
「落人というのはだな、日本の大昔にあった戦争で負けた奴ちゃ。大昔に日本中が源氏、源氏のもん、そして平氏、平氏のもん、この二つに分かれて大戦争しよって、最後は源氏が勝ってだな、負けた平氏のもんが落人として逃げまわっていたわけだな、このあたりでも」
 ホセが津和野を去る前夜、智は不飲ヶ谷(のめずがたに)という所で逮捕された。その場で父親を殺めた容疑を認めたらしい。穏便に過ぎようとしている最後の夜が夢幻のように実感のないものとなった。それは甘く粘つくような日本酒を飲み過ぎたことに因るのかもしれない。
「飲めない水?」
「そうや、源氏の益田兼高いう武将は落人狩りの手を弛めんかったからな、そこの谷が狩られた平氏の落人の血で真っ赤になってな、谷の水を飲むことができんかった、そこが不飲ヶ谷じゃ」
 盛雄はホセのコップに一升瓶を傾けながら放心したように言った。
「そうは言うてもな、狩る者に狩られる者、追う者に追われる者、そんなに違いはないんじゃ。運が良いか、悪いか…石見に生まれようと、ペルーに生まれようと」

                                       了
セルバンテス短篇集 (岩波文庫)

セルバンテス短篇集 (岩波文庫)




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炭坑医   Vladimir Sue [詩 Shakespeare Достоевски]

 シャミールはロシア語に訳された事故報告書を机の端へ押しやった。そして両手で抱え込むようにして額と眼窩を押さえた。
 熱い、頬もちりちりと熱かった。昨日、チェリャビンスクで母と別れてから微熱は意識していた。こんな熱りが明日の朝まで続いているにしても、ここには這ってでも来なければなるまい。今でも診療所がある六五地区では、寒波に沿わないような発熱は忌まわしい記憶を呼び覚ます。ましてや半年前までコルキンスカヤの炭鉱医Доктор шахты
だった自分が、辛そうな赤ら顔をここの奴らに見せれば放射線話しに花が咲くだろう。
 奴ら、奴らとは若い医師たちのことだった。若い医師たちは当然ながら経験に乏しい。そして若い医師たちはおしなべて不潔である。脂ぎっていて、口髭にふけをためていて、サンダルをつっかけて海驢のように歩く姿は正しく水族館のそれだった。一掃のこと、奴らをコルキンスカヤの炭鉱へ週代わりで行かせればいいのだ。
「先生、エマ・ウェインという方がお見えで…診察じゃないそうです」
 マリアがいつもの不貞腐った顔で言いにきた。看護婦も最近は殆どが給食の小母さん顔ばかりだ。炭鉱の飯炊きと並ぶ肉体労働者だから、それはそれでよい。薄給に嘆く天使よりも、下の世話に明け暮れてきたマトリョーナを自分は求めてきた。
「入れてくれ、この時間なら構わないと言ったんだ」と言いながらシャミールは白衣の前を整えた。「生物学研究所での視察が早めに済んだら立ち寄りたいとかで、診察を終えた頃に一時間ばかり話を聞きたいらしくてね」
英語ですよ?」
「それはそうだろう、イングランドからお見えになられている御一行だから」
 マリアは出産慣れした雌の白熊のように肩を聳やかして出て行った。代わりに皮下脂肪を隈なく捜さねばならないような痩せぎすで、四十前後と思われる黒髪の英国人女性が静かに入ってきた。
 エマ・ウェインは小学校の教師だった。彼女が勤務する小学校は、火災事故を起こした原子炉が建つシースケールという村にある。村は英国北西カンブリア州のアイリッシュ海沿岸にあって、写真で見る限りは風光明美に過ぎて、ここ六五地区、南ウラル山中のオジョルスクに住むロシア人からすれば楽園風景でしかない。彼女は村で十一年生活してきて、嫌も応もなく、今は停止している発電所の火災事故の余波を目の当たりにしてきている。その最もたるものは、婚約まで交わした同僚を四年前に白血病で亡くしたことである。もちろん南ウラル建設省管轄の診療所に勤めて半年のシャミールには、一昨年から六五地区へやってくるようになった低線量被爆を視察する市民グループГруппаが、今回は英国と日本の混成としか知らなかった。
「英語にご堪能でいらして助かりました、Doctor Shamil Bogdanov」
「若い頃、ロンドンで研究をすることが夢でしたから」と言ってシャミールは椅子を勧めながら報告書を引き寄せた。「先週、電話をもらってから、ミュンヘンのヘルムホルツ・センターによる報告書を、これがそれですが、読んでみました、ただの内科医、半年前まではただの炭鉱医だったものですから」
 エマは医師の手許の机上に目を移さずに、赤らんで少々汗ばんだような額を凝視していた。
「具合が悪いのですか?」
 シャミールは一瞬ロシア語のИзлучение(放射線)を発音しそうになって苦笑するしかなかった。
「放射線Radiationではありませんのでご安心を、最近までずっと離れた鉱山町にいましたから」
 エマは受け流すように微笑んでから大振りな手帳を鞄から取り出した。
「昨日、久しぶりに母とチェリャビンスクで会って食事をしたのですが、どうも鼻ばかりかんでいた母から風邪をもらったようです」
「それはそれは、それでしたらお母さまの今日は晴れ晴れとしていらっしゃるでしょう。ご免なさい、イングリッシュらしい冗談で。チェリャビンスクって近くの大きな町ですよね?」
「ここもかつてはチェリャビンスクでした。正確にはチェリャビンスク-65と言われていました。二十年近く前に今のオジョルスクに変更されました。私は半年ほど前にここへ着ましたが、皮肉をこめて六五地区、六五地区と言っています。そんなことで、先ほども申し上げたように、最近まで炭坑医だったものですから…マヤークの事故や放射性廃棄物、それらに関わる健康被害について、実のところ多くを語れません」
 エマは教師らしい鷹揚さを見せつけるように頷いた。そして一瞬躊躇しながら足下を見ながら話しだした。
「私の父も、近隣にあるホワイトヘヴンという炭鉱で医師として働いていました。そうです、ホワイトヘヴン、聞かれたことがありますか。一九八四年まで働いていました。当時の石炭庁の総裁、イアン・マクレガーが一七四抗のうち採算のとれない二十抗を閉鎖すると…憶えていますよ、私はもう十歳で、父の落胆と怒りを前に、母が『一七四抗のうち二十抗』を暗唱しているような晩が続いていましたから」
「Доктор шахты、失礼、炭鉱医Mine doctorだったわけですね」
「そうです、炭鉱医から原発事故の村へ、悲嘆に暮れているひまもなく、より困難な現場へ単身で向かっていったのです」
 エマは手帳の裏表紙に挟んだ写真を大事な枯葉のように差し出した。
「真ん中の幼女が私で、私を膝にのせているのは祖父です。五十年近くも炭鉱夫Coal minerを続けてきて、私たち家族を養ってきて、背後に立っている痩せた男性が父ですが、学業優秀だった父がロンドンの医科大学を卒業して医師になれたのも、黒ずんだ手をしていた祖父の働きによるものでした」
「ロンドンの医科大学とは?」と目を上げてシャミールは続けた。「キングス・カレッジですか、やっぱり。そうです、極東Дальний Востокで、ハバロフクスクの極東医科大学で実習に励んでいた頃、犬のようにロンドンからの情報に飢えていました。キングス・カレッジは憧れであり…ジェームス・ブラックをご存知ですか?シメチジン、H2ブロッカーとしてヒスタミンH2受容体遮断薬として開発されたシメジチンです。それだけに限りませんよ、狭心症の治療薬としてのプロプラノロールの発明とか…失礼、ロンドンからの情報に興奮していたあの頃が蘇ります」
 エマは最近まで炭鉱医だった男の細い指先が踊る様に眼を細めた。
「何処の国でも医師は情熱家なのですね。父もキングス・カレッジでの思い出を語るときは楽しそうでした」
 シャミールは項垂れるようにして熱った眉間を摘んで苦笑した。
「お父さまとは比較になりませんよ。お話しの感じですと、お父さまは医師への道を支えてくれたお祖父さまの許へ帰られたのですね。さすがに七つの海を制した大英帝国、父親がやはり立派な父親、男らしい男でいらっしゃる」
 エマは返された写真を受け取りながら教師らしい嗜める目尻で言った。
「ロシアの男だって、立派な父親、男らしい男ばかりでしょう」
「カラマーゾフの連中みたいな男ばかりですよ。私の父は言わずと知れた呑んだくれで、みごとに氷点下の晩に凍死しました。母はその報せを聞いた翌朝、ほっとしたような顔で重機を操るために仕事場へ向かいました」
 シャミールは涙目になって謝るように両手を合わせた。
「私は炭坑医などになりたくなかった。分かるでしょう?研究者になりたかった。しかし…論文を改ざんした容疑で、ソヴィエト時代のように鉱山Шахтаへ送られたのです。お父さまは炭鉱医、ロシア語で言うДоктор шахтыだった。いいですか、私は炭坑医Докторь туннелеだったのです。坑道Туннельの中へ炭坑夫と共に入って、暗がりで裂傷や塵肺の坑夫を診てきました、それこそ戦場の衛生兵のように。半年ほど前に、知事の恩赦とやらで出てこれました。坑道でなければどこでもよかった、ここチェリャビンスク-65でも、放射性ストロンチウム90で汚染された湖の畔でも」

                                       了
馬のような名字 チェーホフ傑作選 (河出文庫)

馬のような名字 チェーホフ傑作選 (河出文庫)

  • 作者: アントン・チェーホフ
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2010/03/05
  • メディア: 文庫



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苦瓜涼瓜   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 杭全(くまた)先生の講義は木曜の午後四時からだった。聴講生はざっと多いときでも二十人前後がいいところだった。「ワルドを読む」という講座では無理もない。それでも先生が歌舞伎役者(黴臭い比喩だが実際にそうなのだから仕方ない)のように、清楚で古典的な美男という噂を聞きつけてか、そして杭全という名字が珍しいことが手伝ってか、入れ替わるようにしてちょっと見本位の女子大生が集まっていた。
 杭全というのは大阪の平野区の地名で、杭全神社の方で関西ではかなり通じているようである。(定説ではないが)平安時代、坂上田村麿の子息で坂上広野麿(ひろのまろ)という人がいて、今の平野区に土地を賜って荘園の造成に励むにあたって屋敷を構えていた。その屋敷跡あたりが枕全と呼ばれていることになっている。それはともかく、クマの音はまず誰しもが「熊」を連想して、杭全の杭の字はどう見ても穴掘りに関連付けられてしまう。そういった猛々しい音も鬱屈とした名字の印象も、絵にかいたような青白い瓢箪の美男によって覆されるのだった。
 先生の講義が激変した日、九九年六月十日木曜日、この日を六・一〇として記憶しているのは一人だけだった。
「台北からきたポーリーです、二十歳です。漢字では賢玉と書きます」
 ポーリーは福建省の建陽というところに生まれて、十三歳のときに叔父が一家を成している台北に渡ってからは、電脳街の頭脳明晰な台湾人として生活していた。一昨年の十八歳の折に来日して以来、何かと理由をつけて三ヶ月ほどは滞在していた。
「留学生なのか?」と先生は窓際のポーリーを一瞥して言った。「留学生がきちんと統計学を学ぶのだったら、言いにくいがあえて言えば、こんなところで、こんな内容を聴講していてはだめだ」
「大丈夫です、ご心配なく」と喫茶店でパフェを前にしたお嬢さまのようにポーリーは言った。「留学生とはいっても偽の留学生ですから、きちんと統計学を学ぶ必要もありませんし、先週までのように一般均衡の話だったら今日を最後とします、滞在も今月一杯で時間もありませんから」
「そうか、そりゃ残念だ」と言って先生は黒板の方へ向いてしまった。「難しいのかな…君たちには難しいんだろうな」
 ポーリーは応えず窓下のアカシアの葉揺れを見ていた。彼女の右前方の五人組が囁き合って席を立った。今日はじめて恐る恐る聴講しにやって来て、一般均衡の説明ばかりの「ワルドを読む」気だったのだろうか。ポーリーのお腹が鳴った。
「下品な笑いかたはやめなさい」先生はさらりとそう言って振り返った。「いいか、耳障りのよい、眠気を誘うような甘口の講義をしようとは思っていない。今日も残念ながら数式がいっぱいだ。さあ、どうする?アーベルが北欧のロック・バンドのヴォーカリストだと思っている君たち、私は数式が見当らないレポートは受けつけないよ。もっとも、偽留学生には関係ない話だがね」
 がったんごとごと、警報が鳴りだした直後のように二人、三人と席を立って退出していった。残ったのはポーリーと最前列の度入りゴーグルに花粉症マスクの女。先生はポーリーをまた一瞥してから、お見通しの神父さんのように花粉症マスクに頷いてみせた。すると花粉症マスクは、現場へ突入するかのようにゴーグルを整えて席を立ち、リュックサックを勢いよく背負って出て行った。
「偽留学生は数式が怖くないのか?」と先生は花粉症マスクが座っていた席を確認しながら言った。「もっとも、単位の取得に響くわけじゃないから、数式も幾何も、数学もへったくれもないか」
「へったくれ?」ポーリーは窓下を凝視したまま言った。「へったくれって?」
「失敬」と言って先生はまた黒板の方へ向いてしまった。「下品な俗語を使ってしまった」
 ポーリーのお腹がまた鳴った。
「お腹が空いているのかい?」と言って先生は腕を組んだ。「四月の最初から来ていたような気がするが…滞在費が底をついてきたなら…」
「大丈夫です、ご心配なく」と言ってポーリーは財布から三枚のカードを抜いて見せた。「お腹鳴るは…我可能有吃太多的苦瓜(ゴーヤーを食べ過ぎたのかもしれない)。昨夜、眠気をなくすように、嶋(しま)さんが皿一杯にゴーヤー・チャンプルを作ってくれました」
 先生はくなっと両肩を落として、組んでいた腕を滅入ったように開放した。
「中国語訳ですが…」ポーリーは呼応するように机上へ俯いて哀しそうに続けた。「ワルラスの一般均衡を説明した本は、三年前に読みました」
 先生はふわっと仰け反るように教壇から下りて、最前机に左手をついて大きく息を吐いた。
「ゴーヤー・チャンプルか…それをつまみながら…焼酎かい?」
「お酒は飲めません」と言うなりポーリーはトートバッグからノートを取り出した。「日本に来てから、眠れない夜はこんなものをやっています」
 ポーリーはノートの頁を開いて席を立った。そしてファンが駆け寄るように下りてきた。ヒールのせいもあってか、先生が幾らか見上げるほどの長身で、ジーンズの腰がくびれた優美なポーリーだった。
「一般線型群の…テンソル空間上の表現…これは眠くなるだろう、誰だって」
「杭全毅(つよし)は天才だって言っていました」とポーリーは唐突に言い置いた。「西荻窪の嶋さんは、毅は奄美に流れ着いたゴーヤーだって、言っていました」
 先生はノートを放るように返して、ぴくっと顎を反らしたかと思うと、腰をひねって小さな尻を机上にのせた。
「テンソルをいじくっていたのは…二十歳の頃だ。君、偽留学生も二十歳だって言っていたね。ともかく、二十歳の頃に駒場でテンソルをいじくっているようでは、天才にはほど遠いわけだ。女にふられて、酒を覚えて、嶋さんの店に入り浸って、あげくは嶋さんの実家にまで訪ねていって…わざわざ台北から何が欲しくてやって来たんだ?」
「リャングア(涼瓜)、それともクゥガア(苦瓜)」ポーリーはノートを抱えるようにして首を傾げた。「嶋さんが、杭全先生をゴーヤーみたいな人柄だって、言っていました。ゴーヤーは中国では、涼しい瓜リャングア、あるいは苦い瓜クゥガア、と言います。あたしは杭全先生が叔父の会社へ来ていただくこと、願っています」
「まいったな…」と言って先生は苦笑しながら机上に胡坐をかいた。「調査済みなのだろうが…ゴーヤーはともかく、プーリー(埔里)の紹興酒、あれは堪らないな」

                                        了



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