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藍の醒春   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 日間賀島は蛸の島とも言われている。蛸の干物が有名で島が蛸の形状をしているわけではない。それにしても三河湾という入海近い波は人を悠長にさせる。私は先月で終っている河豚漁を表紙にした案内書をふたつに折って眼を閉じた。そして中年の脂じみた額を波粒が弾けるフェリーの窓にあずけてみる。数分でも眠りのような弛緩があれば随分と腹が据わってきたことになる。しかし波小高いものの快晴の下を走っているはずが、結露に濡れる私の額の裏には、暗天下の浜辺でふさいでいるトレンチコートの蒼ざめた男が見えてくる。振り払うようにして首のマフラーを巻き直してみると、乗場で見た地図上の日間賀島の規模が思い出されて「日間賀オクトパスは無理だな…ボールが海に落っこちてしまう」と小声で呟いて微笑んでしまった。何をやっているのだ、見ず知らずの島へ呼ばれるまま渡ろうとして。落ち着きなくブリーフ・ケースからファイルを引き出して開いてみると、たちまちアコニチン(鳥兜毒)やテトロドトキシン(河豚毒)など自然毒の構造式が蝿糞に見えてきて苦笑するしかない。笑った後で咳き込みながら自分の寝不足顔を想像して懐の携帯電話に指をのばした。
 私は東京の池上で精神科専門の小室医院を営んでいる。祖父の代からの精神病院一家の次男に生まれついて、離婚歴があって中学生になったばかりの娘が一人いる。趣味はありきたりだがサッカー観戦。研修医のときにJリーグが始まると、兄の影響もあって清水エスパルスを応援しはじめた。月に二度は新幹線や仲間相乗りで日本平や草薙のスタジアムへ足を伸ばした。しかし兄が亡くなった二十世紀最後の年を境に観戦から遠退いていった。
 二〇〇三年の暮れのことだった。友人であり患者でもあるヒトシが、蒲田駅界隈で飲もうと電話をくれた。正直なところ目を離せない人間なので二つ返事で店へ向かった。逢うなりヒトシは、真紅のマフラーを恭しく私の首に架けた。いつも巻いているレイトン・オリエントのマフラーである。英国リーズでの学会の折に誘われるままサッカーの試合を観たらしい。学会での成果交歓も上々だったらしく、向躁状態も加わって観戦はかなり彼を興奮させたようだった。彼の興奮続きを見守りながら二人でJリーグ観戦を再開し始めると、翌年の十月にはヒトシの懇願もあってロンドンへ行くことになった。彼がどうしても双対の紅いドラゴンのチームをもう一度見たいと言い張ったのである。レイトン・オリエントはロンドンの下町を本拠とする二部と三部を行き交っているチームである。今となっては果たして毎年どころか二年に一度もロンドンまで行けるか、という極東の野暮用続きにとっては渋すぎるチームではある。そして私にレイトンを知らしめてくれたヒトシは「仕事が称賛されて人生が薔薇色濃くなってきたときに薔薇色の竜が現われた」と素直に応援旗ばかり見ていた。実際にオフサイドひとつの意味も無関心だった。やがて双対の紅いドラゴンと再会してから燃え尽きたように関心を失っていった。
 私はそのヒトシこと栗田斉(くりた・ひとし)のもとへフェリーに乗って向かっていた。
 ヒトシは私と同い歳で数学(本人は幾何学と言わないと憤慨する)の講師だが、そもそも十歳の春から我が家、小室医院に患者として出入りするようになった。彼は田園調布のはずれにあるレンズ研磨工場の一人息子に生まれたが、就学すると早速に軽い自閉症の徴候を見せはじめた(治療に当たった父の記録による)。私が釣り好きな父につきあって竿を継ぎはじめた頃、ヒトシは上級生のいびりに対して咬みつくことが頻繁になり次第に登校しなくなっていった。
 二人の決定的な出遭いは小学五年生のときで、父がヒトシの父親を羽田沖の乗合いの船釣りに誘った日曜の早朝だった。彼は蒼白の瓜実顔に艶やかな栗色の髪を伸ばしていたので十分に女子と見紛った。母は「眼が黒目がちだけれど綺麗ね」と言っていたが、幼い私は彼の眼が少々怖かったことを白状しよう。しかし中学二年の兄が言っていたヒトシの野獣三昧の噂は欠片も見えなかった。小柄なヒトシは人の腕に咬みつくどころか、早速に船酔いして舳先に最後までしがみついていた。あの頃から釣りものとしての魚類よりは、市場や土産物店で光っている甲殻類などの方が好きだったようである。それから父親の釣り談義に伴われるようなかたちで、月にニ、三度ほど通院するようになり、自意識過剰な私の方から意識的に親しくなっていった。私が兄とTVのサッカーの試合を観戦していると、ヒトシは漆のお盆に息を吹きかけて指で三角形をなぞり細かく分割していた(すでに幾何学をやっていたということか)。その後は私も兄がいたクラブに入りサッカー三昧だったので、父親が急逝されて通院しなくなったヒトシとは自ずと疎遠になった。
 再会したのは私が医師試験の勉強に追われているときだった。東急線の蒲田駅で呼びとめられたのは私の方だった。ヒトシは実家工場の草色の作業服を着ていたが、白髪まじりの長髪に薄っすらと髭を生やしていたので、その頃に上野界隈を闊歩していたイラン人のように見えた。驚いている私を駅ビル最上階の喫茶店へ誘ったのはヒトシの方だった。来院しなくなってからのことを聞いてみると、(彼本人が言うには)高校に入学はしたものの風貌や仕草が気持悪がられて中退してしまった。しかし徐々に家業を手伝うようになってみると、幼少からの数学や物理への憧憬が止みがたいことを自覚する。私と偶然に再会したときは、検定を経て工科大の理学部に入学したばかりだった。過日を懐かしむヒトシは柔和な町工場の兄ちゃんそのものだったので、疎遠になってから十代に二度、突発的な譫妄状態に陥って傷害事件をおこしたとは信じられなかった。
 ヒトシの最初の衝撃発言は、サッカー小僧の私と兄との会話中にぽんと投げ入れられた。有名なマラドーナの「神の手ゴール」について兄と私が難じ合っているときだった。ヒトシは水族館で海豚の芸を見ていたときと同じ目で言った。
「蟹は絶対に間違わない」
 私と兄は発作が起きたのではと訝って顔を見合わせた。
「手を使っているじゃん。でも審判はゴールだって言っている。審判は絶対なんでしょ。だったら、なにも変わらないでしょ、どうせ」
 中学生だった兄はやり場なく横になって「話だよ、話をしているだけさ」と言った。
「ツヨシも兄ちゃんも、大人の真似をして話しているだけでしょ。僕は蟹でよかったと思う」
 私はヒトシの言動に世界で最も慣れ親しんでいる自負があったので「オレと兄ちゃんにも分かるように言って」と優しく言った。
「大人の時間潰しを真似しているのを見ていると…大人が言っていることは無駄なことばかりだよ。だから…僕は蟹になって泥の中へ潜りこみたくなってしまう」
 私は大人びた口調のヒトシの童顔を脳裏に明滅させながら携帯電話の受信を検索した。そして子供の頃と心なしか変わらぬ冷静で格調高々な文語調のメールを辿り直す。それでも彼の口語から蟹が出てくる詩の難解さはなくなり、ワープロに付随した文法ソフトの補正に従順になってきているのが見てとれた。

〇七年四月八日 午後九時六分
「桜を追って北上する蜂がいるなら、彼らの背毛に縋りたい四月、小室君、そして御一家の方々も壮健であられると察する。このような華麗な中春の、このような時刻に、このような駄文を書き送ることを許してほしい。僕は君が僕の主治医であるということ以上に、君が僕の遠い幼時から卑近の酔態をも知る友であることを常日頃、幸運に思う」

〇七年四月八日 午後九時二十二分
「失礼した。どうか驚かないでほしいのだが、僕は愛知県の日間賀島というところで、愛知県警に島内を徘徊する不審者として見られているようなのだ。とは言うものの拘束されたとか拘留されているわけではなく、見晴らしのよい民宿で不自由なく逗留している。順を追って書こう。僕の研究の大半が生活上では共同作業であること、具体的に言えば解析のさまざまなアイデアの突端は、すべて藍(アイ)がもたらしてくれていること、これは何度か話したり書き送ったりしているので君も知っているだろう。藍が僕の研究のみならず生活全般において僕を支え続けてくれていること、藍が一年の大半を採集の行脚に費やしていながらも、旅先から僕へ幾何学的思慮と女性的配慮を与え続けてくれていること、これらの事実を知っているのは友人である君だけだ。申し訳ない。感情的な前置きは控えねばならない。藍からいつもどおり十一日と六時間の間隔を置いて連絡があったのは六日前の四月ニ日だった。僕は毎朝、人並みにPCのメールはチェックしている。そのまま添付しよう。
『今年の冬は長かった。あたしの指はずっとかじかんでいて、三月になっても凍えるような海辺に立てなかった。それでも今までは、あたしのあなたへの思いが、あたしを海辺に立たせてきた。あたしのあなたへの思いの核心はあなたへつくすこと。あなたの言葉で言うなら、あたしはあなたといつも水平的だから、あたしはあなたといつも接続している。だから今日以降、あたしの言うことが日常的で鸚鵡貝の殻のように退屈なものだとしても分かってほしい。あたしはあなたのあたしへの接続を試してみようなどとは思ってはいない。ただ、あたしはあなたへつくしてきたように、あたしが通りすぎる傍らで泣き崩れている彼女たちへ手を差し伸べたくなった。すると、瞼の裏には、海流に乗って遡上した、夜半の波打ち際で息をつく紫檀の木偶が見えてきた。耳を澄ますと、何故か遠く離れた女たちの悲鳴を聞きつけることができるようになった。あたしには彼女たちの鳴き声が聞こえる。最初は玄界灘を渡った壱岐の印通寺港から聞こえてきた。壱岐の次には、深夜の厳島の弥山山頂、紀伊水道の沼島、そして奄美の加計呂間島、これらの島の潮も塞ぐ時刻に、あたしは女たちの悲哀と嗚咽を耳にした。そして先日、日間賀島の太平洋を望む防波堤から、あたしを呼ぶ泣き声を聞きつけた。あたしはあなたのテンソルの歌に耳を傾けてきたように、防波堤に座って擦りむけた右の手のひらを舐めている彼女の声に耳を傾けた』
 南から北上してきたようなこのメールは、ここで一旦途切れた文のまま送られてきていた。そして僕が気を取り直して研究に入ろうとして電源を切ろうとすると追申があった。
『朝になってしまった。十代の頃のような朝が忌まわしい苦味と共に戻ってしまった。藍は大事に育ててきたHAPALOから採集した二〇MUの狼花を見ている。そして花を散じて愚かな虫を土に還すことには迷いもない。ひとつだけ畏れている。美しい小島に幸をもたらして余りあるPUFFたちが誤解されないか。もはや、藍はあなたの幾何学に耳を傾けられるかどうか分からない』
 僕は長らく君の患者であるから察してくれようが、この一文を読み終わった後に残っていた安定剤を貪るように服用してしまった。そしてMUについて調べたことが、君へ連絡して助力を仰がなければならない、と決断させたと言ってもいいだろう。MUはマウスユニットなのだろうか。1MUとは体重二〇gのマウスが十五分で死ぬ毒量、という君たちの分野で使う単位のMUで間違いないだろうか、僕の勘違いであってほしいものだが。僕の返信もそのまま添付する。
『何が起きたにせよ、君は早まって行動してはいけない。君が望むなら、いや、君が望まなくとも、僕は君のために島へ向かう気持でいる』
 そして愚かな男なら誰もが知るように、その感情は幾何学など足蹴にしても僕を島へ走らせた。日間賀島は知らぬ地ではなくて父に連れられて遊んだ思い出がある。タイド・プールの宇宙での安らぎはここに始まったと言っても過言ではない。その日の夕刻には知多半島を下って師崎から島へ渡り宿泊先をおさえた。藍が何かをしようとしている、あるいは何かをしてしまった、という嘔吐をもよおすような懸念が肌をあわだたせた。レンタサイクルを借りて夜半の島を時計回りにまわった。翌日の四月三日、人の奔走を見張っている鴎のようなメールが僕のPCに飛び込んできた。
『この小さいけれど美しい島にあたしとあなたがいるなんてほとんど信じられない。あたしは他の恋人達のようにあなたと自転車でこの島をめぐりたい。しかし、あたしの中の藍はそれを許さないでしょう。あたしの中の藍、という感情が覚醒してしまった今となっては、あなたにもっと直にふれておくべきだったと後悔しています』
『君は手を汚してはならない。君の才能は君が採集してきた生化学の華々と同様に賞賛されうるものなのだ。ここが駄目なら君が指定する場所で会おう。どこにでも行くよ。頼むから逢ってくれ』
 藍は今もって逢ってくれない。
 僕はこの小さな島を彷徨するしかなかった。四月三日の夕刻、太平洋側の東港へ向かっていて防波堤の北端に立ちつくす子供を見つける。防波堤には釣り道具や撒き餌などが蹴り散らしたようにあった。近づいてみると少年は怯えるように逃げていって、彼が見ていた眼下には磯釣り姿の男性の遺体があった。正確に言えば遺体だということを僕が確認した。防波堤はさほど高くはないものの、臆病な僕が膝を震わせながら堤を下りたのだ。端正な剃り痕が濃い男らしい顔だった。眠っているように安らかな目蓋に日は照っていて、転落したあとで苦しくて寝返ったのか、頭の出血が額と左頬にまわって粘ついていた。息はなく唇は心なしか灰色だった。正直に言えば僕が咄嗟に考えたことは、目前の遺体と藍が関わりないことを早々に確認して、場違いな現場を離れて自分も藍も島を出なければならないということだった。しかし堤を足掻くように上った僕は民家の方へ歩き出した。警察へ通報してもらった。遺体は名古屋の市議会議員、益子誠一、風に煽られて転落した可能性による頭蓋骨折、これらは警察が教えてくれた断片だ。僕はさすがに臨場の現実に混乱してしまったのか、吃音が先行して会話が困難になってきたので、日常で破綻した感覚を持ったときの君の指示通りに、神経症を患っていて服薬したいことを告げて民宿へ戻った。そこへ藍から僕のPCへメールが届いた。
『藍は今更、人間が生活するということに感動している。彼のような愚かな人間でさえ、時として誠実な人々と関わって幸を分かち合ってきたようだ。藍は美しい島の名誉が守られ、すべてのことがあなたの幾何学のように明晰となるまでこのまま見守っている。藍は島を去るあなたを怨みません』
 このメール以降、今の今まで藍からは連絡がない。そして忌まわしい予感のもとに島へやって来た僕は、どこかで見ている藍の視線を意識しながら島を去れないでいる。どうも不審者として通報されたのか、昨日、七日には畏れ多くも警視庁から電話をいただいた。すると幾何学者などというものは、幾何学へ逃げ込めれば世情も霧散すると高をくくっているのは本人だけだと知って、とても孤軍を全うすることなどはできそうもない。やはりここに到っては申しわけないが君を頼らざるをえない。安定剤を持参してくれと懇願しているのではなく、僕と藍のために、現状の何が明確に推量できるものなのか、何が不可測な混沌としたものなのか、僕に絡んだ藍というアリアドネの結び目に指をかけてくれるのは君しかいないのだ」

 私は携帯電話をたたむと同時に眼を閉じて額を振った。何が何でアリアドネとか、混沌として嘔吐をもよおしたいのは私の方だった。ヒトシは善いにつけ悪しきにつけ変わっていなかった。私にだけ気を許して、彼はいつも一方的に幾何学について語り、一方的に藍について語ってきた。友人としての私の不愉快をどれほど察してくれているものか。微分可能多様体とかいう幾何学はともかく、私はヒトシにとって女神のような存在の藍という女性に会ったことがないのだ。患者と医師の間柄は二十年近くだが、幼少時から三十年以上の縁がありながら彼女に紹介してはいただけない。ヒトシが藍と二人並んでのそれはむろん、藍が一人で写っている写真一枚でさえも見せられたことがないのだ。もちろん声などに到っては、小鳥の囀りなのか、山犬の遠吼えなのか…むろん私は最終的に医師としての分析へ猟犬のように立ち還ること、それがヒトシに関わり続けることだと知っている。


 西港の船着場で私を迎えたヒトシは、行楽客の姿からほど遠くトレンチコートの裾を靡かせていた。髪は伸ばし放題だったが髭は元来、薄い質だったので不潔には見えない。青白い手を握りながら覗きこむと、黒目がちなので充血はやっと確認できるが焦点は定まりなく落ちつきなかった。
「まずは医者の俺の言うことを聞いて持ってきたものを飲んでくれ」
 ヒトシは安堵したように白い歯を見せながらも慇懃を保っていた。
「レイトンのマフラーだね。ありがとう、ここまで来てくれて感謝している。愚かな友人というよりも、奔放不軌な患者の一人として勘弁してくれたまえ。そして、安定剤を飲む前に君に会わせなければならない人がいる。警視庁の薮田(やぶた)という警部補で、今朝早くに来られて僕という異常な人間に多分の興味をお持ちのようなのだ」
 混雑を逃れるようにして港から離れて、新装したばかりのように擬似の白漆喰がまぶしい喫茶店へ入った。慣れ親しんだような「先生、先生」が連呼されて、猫背で疲れた背広の男が跳んで来た。すると奥の席からゆらりと長身で頬がこけた男が立った。一瞬にして育んだ嗅覚を隠すべく、その男の肩の張りが落ちるのが見てとれた。愛知県警の柿崎は父兄に頭を下げ続けてきた教頭のように猫背を折り曲げてから、大袈裟な身振りの下がり口上で背後の警視庁閣下を紹介した。
 薮田警部補はすでに仕事の構えになっていた。もう一人の友人が加わったように私の手を握りながら、柔和な目つきで「大変でしたねぇ、本当に大変でしたねぇ」と繰返した。私は彼の訝しさを頷きながら呑みこんで、一見消沈しているようなヒトシの面の裏洞で苛立っている歯牙を弛ませようとした。
「たまには街から出ませんとね。しかも日本人で四人目のフィールズ賞受賞者にならんとする友人が、日常の雑務ひとつに惑わされることを懸念しているのに、事件に遭遇してしまうなどとは…まったく浮世の配慮を疑いたくなります」
 私に肩を軽く叩かれたヒトシは見計らっていたように微笑んだ。
「警部補は御足労にも東京から挙動不審な幾何学者を尋ねてこられたわけだ。僕のような人間は、君が持ってきてくれる霊薬で落ちつきを取り戻せば、微分幾何学と蝦蛄のようなものにしか関心をしめさない男だと証明できる、と申し上げたんだが」
 薮田は虚を突かれたような唖然とした口のまま頭を掻いた。
「栗田先生、もう脳足りんの警察官をいじめないでくださいよ。私も本当のところはもうちょっと頭が良ければ、こういう島で蛸や河豚、そうそう河豚の毒でも研究して日がな過ごしたかったですよ」
「河豚の毒?」とヒトシは不意撃たれたように薮田を見上げた。
「河豚の毒が関係しているのですか?それでもう一度現場へ同行してくれと。僕が身命をかけて研究しているのは幾何学だけですから、甲殻類、ましてや魚類のことは何もお話できることはない」
「まぁ、あれはおそらく転落でしょう」薮田はそう言って柿崎の背を押すようにして続けた。
「まあ、ちょっとだけ県警につきあってください。栗田先生も先ほど言っておられたように論文の校正もあるでしょうから早々に民宿へ戻っていただくとして、途中、申し訳ないですが第一発見者ですから、ちょっとだけ検証につきあってやってくださいよ」
 私は警察らしい手際に白けた様子を見せてみた。しかし軽く興奮しているヒトシは薮田の眼差しから逃れたかったのか、私から安定剤を受け取りながら紙ナプキンに民宿までの略図を書いてくれた。
「それじゃ、先に行っているので宜しく頼むね。人騒がせな奴だと…今更でもないか。それから…もうこの歳になるとフィールズ賞は無理なんだよ」
 私も四十歳以下という受賞条件は彼本人から何度か聞いていたので肩を竦めるしかなかった。
 薮田はヒトシが出て行くと柔軟な殻を脱ぐように伏せていた目を上げてきた。
「申しわけありませんでしたが、知的で生産的なお仕事をなさっている先生方に、聴取をとるうえで要領だっていないのは無粋かと思いましたし、実のところ私の時間も限られているものですから…」
「警視庁の方がこうして三河湾の島へいらっしゃったのには分けがあるのでしょうね」
 薮田はさらに硬質な背羽を広げるように背筋を伸ばした。 
「もう御存知かもしれませんが、名古屋の市議会議員、益子誠一という方が釣りの最中に事故にあって亡くなりましてね」
「防波堤や磯ではよくあるらしいですね」
「議員の事故は基本的には愛知県警の仕事です。私は栗田先生という方について確認したいことがあるのです」
 私は頷きながら書きとめる気もないファイルを取り出した。
「率直にお伺いして、主治医の小室先生としては、ここ暫らくの栗田先生の精神状態はどのような診断となっていらっしゃるのでしょう」
「もとより知的で生産的な数学者にありがちな神経症です、一言で言えば」
「神経症…大学の先生が論文作成をかねて行楽で日間賀島へ来られて、たまたま散策中に防波堤の釣り人の事故に遭遇された。そして先生は少々不愉快な記憶をお持ちのまま東京へお帰りになった…というふうにはいかなかったようですな、栗田先生の場合は」
「率直にお話しいただけませんか」
「失礼しました。栗田先生は犯罪やそれに使われる凶器や毒物に対して興味をお持ちでいらっしゃる、というようなことはありませんかね」
「子供の頃から好奇心は旺盛なやつですが、私の耳にしつこく残っているのはテンソルとかベクトル・バンドルとかの用語ばかりです」
 薮田はまた肩を落として頭を掻きながら続けた。
「それでも事件に遭遇されて興奮されたのですかねぇ、お持ちになった安定剤を見て大層喜んでいらっしゃったから」
「彼が証明を書きなぐっているところに遭遇すると、私も安定剤を飲みたくなりますよ」
「先生のご専門でしょうが、身近で殺人とか火事とかの事件が起きると、興奮が冷めずにそうとうに持続する方もいらっしゃるでしょう」
「具体的に彼が何をしたのでしょう?」
「失礼、どうも人には率直さを求めていながら自分はまわりくどい。さて、とあるメールが柏の科警研に届いたのですよ」
「柏の何ですって?」
「科警研、科学警察研究所のことで柏にあります。科捜研よりも先生方のお仕事に近いのでしょうけれど…」
 私の手に焦燥に似た湿りが滲み出した。
「そこの法科学第三部の第二研究室、そこの研究員からうちの方へ連絡があったのです」
 私も科警研のことは仕事仲間から断片的に聞き知っていた。法科学第四部が心理学と精神医学のブロックと記憶していた。
「今どきの見通しのよい進んだ公的機関として、通常も外部からの問い合わせはメールで受けているようです。そして先日、とあるメールがその第二研究室宛てで届いた。該博でいらっしゃるから御存知かもしれませんが、この第二研究室は犯罪に関与する毒物及び劇薬の分析についての広範な研究を推進するところですが、メールを送ってきた方も、ある事件に生物毒が関わっている疑いがあるのではないか、という問い合わせというか、示唆するような内容を送ってきています」
「そのメールの主が栗田だとおっしゃるのですか」
「メールの主は携帯電話から科警研へメールを送ってきています。栗田先生は、ノート・パソコンを常時所持していらっしゃるようですが、なんと携帯電話を持たれたことはないとか。数学を研究するのに煩いからでしょうかね?」
「自分や他人の利害にあまり関心を持っていない人には邪魔なのかもしれません」
「なるほど、でメールの主なのですが、メールを貰った場所柄、事件性があると判断してアドレスから電話会社へ照会を依頼しましたら、案の定と言いますか、前払いのプリペイド式の携帯電話から送られてきたメールと判明しました」
「ヒトシは、栗田は携帯電話が落ちていても見向きもしない人間です」
「もう少々聴いてください。拾ったか買ったかはまだ正確には分かっていませんが、現状確認できたことは、電話番号とアドレスを取得した人間はミズシマ・アイ(水島藍)、二十九歳、アドレスはAIWAINDIGO@以下で…アイワインディゴだから藍色は英語でインディゴというようなことですかな。住所は京都の伏見区桃山の公団住宅です」
「京都の伏見区桃山…」
「どなたか、または何か、お心当たりはありませんかね」
「いや、まったく…それで京都のそこはミズシマ何とかさんのお宅だったのですか」
「水島さんは水島さんだったのですが、退官されて久しい元大学教授が古本の中に一人住んでいらっしゃって、親類縁者に藍の名前の方はおられないそうです」
「そこから科警研宛てのメールと栗田がどう繫がるのですか。メール内容も可能な範囲でお教え頂けるのであれば、記憶の経絡がその何かを拾いだしてくるかもしれません」
 薮田はゆっくりと肘掛に頬杖をついて言った。
「繫がりの端緒は、その携帯電話のリチャージ、追加で前払い通話料を購入した際のクレジット口座の名義人が、栗田斉という方だったということです。クレジット会社へも照会を依頼すると、名義人ご本人からの紛失及びそれに伴う被害届けはない、ということと、まして口座番号と暗証番号を知られていれば拾われた金も同然とか」
 薮田は精神科医を相手にして透徹するように目を細めた。
「栗田先生は水島藍という名前もアドレスもご存知ないそうです。親類縁者や大学関係にも心あたりはないそうですが、二十九歳くらいの女性で教え子とかいらっしゃいませんかね?」
 私は不覚にも顔を背けてしまった。
「教え子なんて、そんな馬鹿な」
 薮田は頷きながら使い込んでいる手帳を慌しくめくった。
「ともかく問題のクレジットの口座の名義がご本人ということは確認いただけて、それはそれで厄介なことが露見してしまったわけです。まあ、本人が知らないうちにクレジット・カードを使われてしまったことは事実ですから、カードは使用停止に陥りそれなりの手続きを踏んでいただくわけですが…」
 薮田は老眼なのか見つけたページを仰け反るように注視しながら言った。
「栗田先生は独身者のようですが、女性との交友関係はどうなのでしょう。女性にいつの間にか高額なものをカードで買われちゃった、なんていうことは普通にあることですからね」
 私は藍について平然と首を横に振る鉄面皮のヒトシが想像できなかった。
「確かに何から何まで彼のことを把握しているわけじゃないが、私が知る彼と関わる女性というのは七十半ばのお母さんだけですよ」
「生真面目な研究者なのですね、分かります。ただ、ご本人が精神疾患でいらっしゃるので先生にお聞きするしかないのですが、例えば最近、職場関係とかで外国人留学生とか、一杯飲みに行った盛り場の先で外国人女性と懇意になられたとか」
「いいえ、蒲田生まれの遊び人である私ならともかく、あのヒトシが外国の女なんて…携帯電話を不法使用するのが外国人に多いというのは分かりますが、不法使用の契約内容を鵜呑みにして短絡に外国人女性へ結びつける、いかがなものでしょう」
 薮田が口許を弛めて手帳を胸元へ引き寄せたので、私は相手の懐へ入って間合いをつめることにした。
「と、まあ、私にこういう釈迦に説法を吐かして悠長にさせていては、お互いに時間が勿体ない。警部は人から大事な話を聞き出すプロですし、私は人から大事ではない話に聞き入るプロですから…そもそもあ水島藍が外国人かもしれないという可能性があるのですか?」
 薮田は仕方なく私という人間を警戒レベルまで引き上げたようだった。
「さすがに攻守逆転に敏い、やっぱりサッカーはカウンターですかね、お好きなそうで」と言ってから薮田は身を翳すように伸ばした。
「いいですか、防波堤で亡くなっていた益子誠一には、名古屋市内の風俗店に勤める翠蘭(すいらん)という台湾人女性が同行してこの島へ来ていたのです。そして県警からの身元調査依頼で公安から刑事部の私のところへ通達されたことは、栗田先生と翠蘭がここ西港で六日の午後に目撃されているということです。今いらっしゃったフェリー乗場の向うの防波堤上り口で二人が会っていたと」
 私はすでに驚愕を慣らしきって放心したような情けない顔だったに違いない。
「え~と、事故があったのが三日の夕方で、翌日には県警が同行していた他の議員や風俗店の女から事情聴取をして、午後には遺体の搬送に同行するように全員が島を離れた、となっていますから…」
 私は眉間を抑えて後退するように首を振った。
「つまり、その台湾人女性ひとりがヒトシに、栗田に会うべく六日の日に島へ戻ってきた、ということですか」
「そのようです。こうして短絡な我々が、科警研へのメールの件と翠蘭という女性を繋ぐまでは一本道となるわけです」
 私は仕事柄、ヒトシについて幾何学以外は本人以上に了解と範疇づけができていると想っていた。しかし私の分析も既の時間のことでしかないことを確認させられた。
「いやいや、ボストンとかロンドンとかで知り合った女ならともかく、台湾で、名古屋の風俗店…」
「ええ、お察しかと思いますが、栗田先生は翠蘭に会われたことを否認されました。記憶にない、という表現を繰り返されましてね、西港で道とか店舗とかを尋ねられたくらいのことなら記憶にないと」
「研究に集中しているときは、五分前に口に入れたものを忘れている。あれは子供の頃からそうです。我々とは脳幹の使い方が違う」
「不思議な方ですな。ああいう顔で、記憶にない、と言われてしまうと、これはもう小室先生のお越しをお待ちするしかないかなと…こちらへ来る前に少々調べさせていただいたのですが、いわゆる自閉症児だったそうですね。数学で目立たれはじめるのは高校生になってからで…ちょっと騒ぎも起こしていられますなぁ」
 私は自身も知る情報へ横ずれしてくれたので、一掻き一掻き這うように冷静さを取り戻していった。
「え~と…ご存知でしょうけれど、十三歳のときに、自転車に乗れないことをからかった同級生の女子を突き飛ばして、その子は橋から自転車ごと河川へ落ちて全治一ヶ月」
「河川というほどじゃなく側溝です、その場で見ていましたから」
「それと十八歳のとき、東新宿の路上で無職の女性二人をパイプ状のもので殴打、一人は全治二週間、一人は骨折全治三ヶ月」
「彼もひどいめにあっています。彼女たちから煙草を溶かしこんだワインを無理矢理に飲ませられて急性ニコチン中毒、呼吸麻痺で死にかけました」
「ほぉ…で幼い頃は先生のお父様が主治医で、思春期になってからは通院されていない。やっぱり薬は飲み続けなきゃだめですかね」
「警部もお仕事柄、薬をほしくなるときがあるでしょう」
「い~え、傍目よりも鈍い質で…多重人格?九五年ですが、奈良で会議中に全身痙攣をおこして救急車で搬送されている。東京へ帰ってからの大学病院での診察結果は心因性機能障害、担当教授の所見に、多重人格の症例に似る、とありますが、この頃なら先生が診ていらっしゃったのじゃないのですか?」
「遊び人の町医者ですから」と言って私は自嘲を頬につくった。
「あのときは男女の喧嘩のように些細な擦れ違いがあって半年ばかり疎遠でした。多重人格に似る、という所見についてですが、そういった症例に似ていたというだけで、ドラマティックなイメージは言葉だけだと思ってください。実際、私もドイツで研修中にニ、三のそれという所見の患者を見たことがありますが、日本ではおかげさまで、と言いますか、私が確認しているかぎりでは、似ていてもだいたいは神経症、ヒステリーですね」
 薮田は不快な微熱を感じたのか薄紫のネクタイを男臭く弛めた。
「我々も難しいことにきりきりと頭を使っていらっしゃる先生方を刺激する気持ちは毛頭ないのですが…」
「分かっています、お互い真実を掘りあてるような仕事ですから。そして、ここまで繫がったのなら、友人及び患者でもある栗田斉が重要参考人でも致し方ないことで、彼はむろん、この私も可能な限りあなた達に協力しなければならない」
 私は分析する前に際限ないヒトシの変容を受け入れようと思った。そして勇を鼓して市中の精神科医にならねばならなかった。耳奥で痙攣している幼いヒトシの吐瀉物が鳴る。そして辟易して後退する私を軽く押しのける手、泡吹くヒトシを抱きかかえて優雅なほどに悠々と診察室へ移るのは父だった。やることは決まっている、といつも父は言っていた。それは目の前にある虚妄への阿りに断固抗し続ける戦いである。
「まず、プリペイドの携帯から科警研へ送られたメールの内容を可能な限りお教えいただけませんか」
 薮田は残っていたコーヒーを飲み干してカップへ微笑むように言った。
「分かりました。先生の著作を読んでいるのも何かの縁でしょうから…」


 八足を座りがいいように広げた桜煮の蛸が、女将の容赦ない鋏さばきであっという間に切り並べられてしまった。私はその手際を子供のように羨ましく思っている。焼き魚は上品なほど腹が輝白なカマス。ヒトシは子供の頃と同じように箸先を口に入れて小さい鋭牙をちらり見ていた。
「医者の言う処方を守らず薬を貪り食う患者に飲ませる酒はないのだが…」
 私は皮肉に口端を曲げながらヒトシのコップにビールを注いだ。
「どうするんだ、水島藍のことは。おまえが俺に度々のろけるというか話してくれる恋人、送ってくれたメールの中でも随分と無理難題を言い出した藍ちゃん、その藍ちゃんと水島藍が同一人物ならおまえは偽証罪に問われるぞ」
 ヒトシは乾いていない前髪が視界を邪魔するのも気にせずにコップの泡を見ていた。
「警察が知っていることは、水島藍がおまえのクレジット口座を使って通話料を補填したプリペイド式の携帯電話から、科警研の問い合わせメールとして三部第二研究室宛てで、ある死亡に犯罪の疑いがあるので鋭意捜査願いたい旨を送ってきたことだ」
「鋭意捜査か…」と言ってヒトシは子供のように畏まってコップを置いた。
「一生懸命になって調べてくれと言っている。あとは三日に転落して亡くなった益子誠一が連れてきた台湾人女性の翠蘭、翠蘭が六日にこの島へ戻って来ていて、フェリー乗り場でおまえと会って話しているのを見たという目撃証言がある」
「それは本当に憶えていないんだ」そう言ってヒトシは薮田との不愉快さを思い出したようだった。
「それに、その台湾人がまだこの島にいるのなら、早く捕まえるっていうか、身柄を拘束して本人から聞き出せばいいことだよね」
「分かった、おまえが名古屋の風俗店の女と関係ないことは。また戻るが、藍のことはどうするつもりなんだ。おまえもこの歳になった男だ、俺がここに来るまで、藍の行動にどう対処していくか考えていたんだろう?」
「そうだね…」とさも熟考していたようなヒトシの苦虫顔は、まったく要領立てて考えていなかった証である。
「これからどうするか…でも藍が何かやったような様子は見えないし…」
 私は威圧するように自分のコップに壜を勢いよくぶつけて注いだ。
「充分に世間を騒がせているじゃないか。いいか、おまえの藍ちゃんも、おまえのメールによれば実際に加計呂間島へ足を伸ばしているんだろう?そして水島藍のメール内容は、俺が警部補から聞いたところでは、先月二十二日、加計呂間へ行楽で来ていた福岡の図書館員の女性が心筋梗塞により亡くなった。そして検死解剖に当たった医師は、保険会社からの依頼で臓器と血液を保存して毒物との関わりの分析を行っている。結果として毒物による殺害の可能性があるにしても、おそらく保険金の支払い申請などが出ていない状況なので民事訴追に至っていない。それを不満に思った水島藍は、図書館員に同行していた神田の出版社役員の男性について捜査依頼の旨、科警研の問い合わせメールとして送ってきたわけだ」
 ヒトシはさすがに疲弊したような溜息を吐いてからビールを舐めるように飲んだ。
「それにしても藍はよく調べているようだ、事件の関係者とか保険会社の動向だけじゃなくて、河豚毒などの生物毒についてかなり詳しく。テトロドトキシンが使われた可能性が高いものの、安易に河豚の卵巣や肝臓が分離元だと決めつけずに、豹紋蛸(ヒョウモンダコ)や小さな河豚を獲物にしている鯔(ボラ)類からも分離は可能だと。おそらく、加計呂間で河豚を食ったとか食っていないとか、入手経路がどうのこうので時間をロスされるのを懸念したんだろう」
「学名ハパロカラエーナ(Hapalochlaena)」ヒトシはそう呟いてから傍らのノートPCを引き寄せた。
「豹紋蛸は、唾液腺に二種類の毒を含んでいて、一つは甲殻類を捕らえるためのもので、もう一つがテトロドトキシン、熱帯地方では、咬まれた報告が頻繁で、呼吸困難になって、子供や女性の場合は亡くなるらしいね」
「神経毒だからな、それが彼らの脊椎動物に対する防御ってものだ。メールのハパロ(HAPALO)が気になって調べたのか?そりゃあそうだな」
「PUFFは河豚のことだね。そして君にだけ見てほしいものがある」
 ヒトシは作ってあったファイルを開いてから液晶画面を私の方へ差し向けた。
「僕は、この子が、あのメールを送ってきたとは、信じられないんだ」
 私は画面いっぱいにセーラー服姿で両手ピースサインを突き出すポニーテイルの女の子を見ていた。写真をスキャナーで読み取った観がある。背景は鄙びた反射を見せているが金閣寺の舎利殿だった。逆光でやや翳った面立ちながら鋭利で頑なそうな眼差しがこの時とばかり微笑んでいる。華奢に見えるのは二の腕と膝下が長いからだろう。これが藍その人だとしたら、私は今の今まで何について思考してきたのか自分を訝りたくなる。そして華やかな修学旅行の極まり絵の上に、蒼白なまま詩句を諳んじているようなヒトシの顔があった。
「まさか彼女が来年は同志社か立命館、失礼、京都大学に行きたがっている、なんて言わないでくれよ」
「この写真しかないんだ」と言うなりヒトシはノートを抱え直して一瞥するなりファイルを閉じようとした。
「今まで、藍が言ってきたことからすれば、この写真は十二年前くらい、だろうと思う。もう大人になっちゃって、今年で三十歳になるらしい。この子が、あの四月二日のメールを、あの『HAPALOから採集した二〇MUの…狼花』なんて書いて送ってくるなんて、僕は信じられない。生物毒に詳しいのは、ライフワークの一環だからだろう。それに、詳しいからこそ、黙って見ていられなくて、メールを送ったのだと思うんだ」
「待ってくれ」私はヒトシの息が上擦ったような話し方を抑えた。
「分かった、おまえのそのパソコンの中の藍が、科警研へメールを送った水島藍だと認めるわけだ」
 ヒトシは望んで手繰り寄せた人間関係に俗に言う厄介を見て戸惑っていた。
「ところで、おまえは水島藍の情報をどれほど持っているのだ?男のおまえが、女の藍のことをどれだけ知っているのだ?男女の関係というのは、一時的な関係を美化しがちなのだ。つらいかもしれないが、人は生活するために美化されたファサードを取り払って、一時的な実体のセックスというものに直面しなければならないのだ。眼の前にいる藍の声を聞いたことがあるのか?」
「藍の声…」と呟きながらヒトシは卓の下の翳を食い入るように見つめていた。
「僕は若い頃、セックスを幾何学へ昇華できる、と信じていたわけではないが、セックスから逃れられないのは、若さゆえだと思っていた」
「若くなくても、生殖能力を失っても、生きている限り我々の脳はセックスからは逃れられないよ」
 ヒトシはビールを飲下して目尻に疲れた苦笑の陰影をつくった。彼もまた彼のセックスと遣り過してきたのだ。
「僕らしいかもしれないが、水島の姓だってことも知らなかった。この四年間のメールの遣り取りで分かっていることは、彼女は北九州で生まれ育っていて、学生生活はやはり京都、そして滋賀の製薬会社に就職したが半年もせずに辞めて、援助団体を通じて東南アジアの山村の中学校へ行って、そこの教員として三年間過ごしている」
「東南アジアのどこ?」
「タイのチェンライ県メースワイというところのヴィタヤコム中学校」
「その記憶力は今更驚かないが、かなり詳しいな。いつのまにかタイ通になっているとは」
「僕もいつか行ってみたいと思っているんだ。彼女は時折、思い出したようにメールにのせてくれる、校長先生とかスウェーデンのウメオから来ていた同僚のこととか、サリカっていう少女のこととか。問題の袋小路にはまった深夜などはどんなに癒されるものか…バナナの葉で餅のようなものを包む話、あのイメージは鞍点の解消へのアプローチにとても役立った」
「分かった、この数年のおまえの研究が藍との共同作業に成り立っていることは」
「しかし、あのメールは変だ」そう言うなりヒトシは自分の腹へ放り込むようにノートを引き寄せた。
「四月二日のメールだけが変なんだ。さっき二年分くらいだけれど、藍からのメールだけをまとめてみたんだ。読んでもらえば分かるが、タイの校長が飼っていたクマムシとか、壱岐の蝦蛄の話はあるが、毒の話とか、誰彼が愚かだなどと言いだすのは、四月二日からなんだ」
 私はノートを受け取りながらヒトシの頚椎をひくつかせる沸々とした焦燥を見とめた。そして一旦、藍からの色気を微塵も感じさせないヒトシ宛てメールを読みだすと止まらなくなった。二人が「MAD・CRAB(マッド・クラブ)」という熱帯魚を中心とした海生生物のブログで知り合ったことは聞いていた。いまどき珍しく慇懃で丁寧なヒトシの文が藍の目にとまっても不思議ではない。私は蛸足を必要以上に噛み続けながら古風な文章を追う。純情な人間に相対して純情な人間がいるものだ、と同い年の中年を嫌が応にでも微笑ませながら読み続けさせた。
 ヒトシはいつのまにか座椅子を倒して横になっていた。昔ほど安定剤が効かなくなっていたので、鎮静睡眠剤のフェノチアジン誘導体で調節したのだが、ヒトシはあっさりと世界の騒憂や私の省察を打っ遣って熟睡していた。そのように見えていた。
 私は読み終わって呉須牡丹の大皿に残った蛸の足と海老の殻を見ていた。そして四月二日の藍からのメールを再三に二度、三度と読み込むと、過敏な子供のようなヒトシの寝顔に目が移っていった。ヒトシは本当に寝ているのだろうか。彼の恐るべき脳髄では、辺りの静謐さとは裏腹に私に煽られた感情が、睡眠剤の被せてくる弛緩を蜘蛛の巣を掃うようにねじ伏せているのではないだろうか。ヒトシが私の背後を捕れる瞬間を狙っているとしても不思議ではなかった。
 そして分析と幻想が混濁しはじめた他愛ない思考に水を浴びせられた。ヒトシのノートに藍からのメールが飛び込んできたのである。私は躊躇わずに開いた。

〇七年四月九日 午後九時三十七分
「別れても尚、あなたの若さと哀しさは美しい。そしてあなたの若さと美しさは哀しい。皮肉は愚かな人間と誠実な人間との干渉にある。藍は運昇と転落を繰り返すシーシュポスのような人間の生活に涙する。益子のような愚か者の死でさえも神から下されたように伝えられ、あなたの妹やあなたの嬰児の死は紬鯊(つむぎはぜ)のそれのように見捨てられる。しかし怨讐の季節はここに来た。たとえ愚か者をそのまま許しても、干渉は誠実な人間に皮肉をもたらす。藍は孤独を厭わない、性に生きると揶揄されてきた女たちの未来のために。これから美しい頬と唇、そして舌に痺れが降りてくる。藍のHAPALOの唾液腺もまだまだ優しい。救いはそこから近い安楽寺で祈ること」
〇七年四月九日 午後九時五十八分
「藍への疑惑は大義への疑惑 この携帯電話を読みし者は日々の糧に恨を見よ」

 時計を見ると十時にならんとしていた。一読して直感したことは、藍が間違って送ってきたということだった。あるいは己の行為を誇示ないし示唆するためにか、行為の挙句に混乱しているのか。「あなたの妹やあなたの嬰児の死」というくだりから文末まで推察すると、詩的な美文調をどこまで信用できるかはともかく、このメールを本来送りつけられた女性は、安楽寺という寺近くにあって、豹紋蛸の毒テトロドトキシンを盛られたことになる。藍は何をしようとしているのだ。藍は本当にヒトシがメールで親しんだ藍なのだろうか。目覚めたヒトシはこのメールを藍からのものだとは信じないだろう。冷えこんでいるはずの夜気に抗するように、調節利かない嫌な脂汗が滲み出てくるのだった。
 私は受信トレイを閉じながら躊躇していた。その着飾ったような悪意のメールを残しておいてヒトシに読ませるべきか。とりあえず受信トレイから外して別ファイルに移した。すると呼応するように、ヒトシがはっきりと寝言を呟いた。
「…俺たちゃルナティクス、ルナティ…」
 ヒトシはルナティクスの夢を見ているのだろうか。
 私が三十半ばになんとか十一人集めた常負の草サッカーチームが「ルナティクス」である。父は吐き棄てるように「患者さんたちのことを考えろ」と言っていた。チーム名を考案した亡き兄は「狂人の意味じゃなくて変人の意味だよ」と言って高笑いしていたものである。ヒトシはたった一度だけ江戸川競技場まで応援に来てくれた。
 私が長髪を払って首筋の脈を窺ってから毛布をかけてやると、ヒトシは待っていたように自ら包まっていった。
 そしてやり場なく酒を頼もうとしたときだった。携帯に電話がはいった。薮田警部補は疲労が見え隠れする声音だった。
「もうお酒が入られた頃ではないかな、と思ったのですが…」
「酔いを醒ますのには警部に電話番号を教えておくのが一番ですな。冗談ですよ、ビール一本だけです」
「そうですか、ビール一本だけですか。それはよかった、というか、ここは安楽寺というお寺なのですが、遺体が見つかりましてね…身元確認がとれたところなのですが、捜していた翠蘭、例の名古屋の転落して亡くなった議員と一緒に島に来ていた風俗店の翠蘭なのですがね」
「捜していた翠蘭…」
「鑑識によりますとね、今から約五時間前の十七時半前後に絶命、死因は解剖していませんが、呼吸困難になって何度も転倒したのか打撲痕が体中にあって、どうも嘔吐物に毒薬反応が見られるようなのです。先生?聞いていらっしゃいますか?」


 私はフェリーの出入りを望める洒落た二階のカフェ・テラスでヒトシを待っていた。赤茶けたテント地の日除けを風が弄ると、たっぷり吊るされた陽気な蛸のキーホルダーが風鈴のように鳴る。娘のために買おうかどうか思案していると、見覚えのある県警の車が下に止まった。車酔いしたような蒼ざめたヒトシが薮田に支えられて出てくる。私は不惑の顔を装って階下へ二人を迎えに降りていった。そしてヒトシの口唇を洗うべく洗面所へ連れていった。
「すみません、ちょっと興奮されたようです」そう言いながら薮田は素人臭く眉をしかめて見せた。
「もう帰らしてくれ、ツヨシを、先生を呼んでくれ、の繰り返しでした。時々あんなふうになられるのでしょうか」
「このごろは歳も歳なので落ち着いてきています。それに重要参考人だとしても、精神疾患だと分かっているのなら…医師が離れるべきではありませんでした」
 私がそう言って手洗いの方を見ると、ヒトシはウェイトレスに洗面所を濡らしたことを謝っていた。朦朧さめやらぬ足取りで席に着いたヒトシはそのまま眼を閉じた。
「正直なところ進展がないので、引き続き様子を見ながら、そうですね、栗田先生には警視庁へ出頭していただくことになります」
「どちらにしても弁護士を立てますから、お互いきちんとした道筋に沿ってやっていきましょう」
「仰るとおりでして、こうなってしまっては、ひとつの保険金殺人を示唆されたという枠を越えて、無差別で広範囲な連鎖反応、そういったものへ拡大することを懸念します。そもそもの科警研へのメールの件以来、科警研の副所長、警視総監ですが、そちらまで報告が上がってしまったヤマでしてね」
「それはそれは…結構なヤマを担当されることになったわけですな」
 私はそう言ってから下の車中で待機している県警の刑事たちを流し見た。そして薄ら笑っているように唇を痙攣させるヒトシの痩せ肩にマフラーをそっとかけた。
 早朝からは任意同行を求められたヒトシに付き添って慌ただしかった。薮田の半ば強引な遺体確認を受諾すると、ヒトシは防水布の中の遺体を見て「そういえば、波止場で事故のあった防波堤まで一緒に行ってもらえないか、と言ってきた人だ」と放るように言ってしまった。翠蘭は血の気があった生前を想像し難いほど、もはや化石のような荒涼たる美しさとなっていた。南方系らしい小振りな顎の面立ちは、議員を悩ませた小悪魔ぶりを想像させた。薮田はさっさとファスナーを閉じると、私に毅然と向いて、個別によるヒトシの事情聴取を取りたいと言いだした。私は一刻も早く東京へ戻ってヒトシに充分な診療を施したかったので了解した。そしてヒトシを中心とした弁護士との連携による事件の全容把握を目論んでいた。
「そうだ、ここの食事を奢らせてください」
 薮田はそう言うと疲労も手伝ってか、可笑しそうに顔を歪めたが直ぐに真顔になった。
 私は出航の時刻も迫っていたので急ぎオーダーを任せてもらった。定番でもないが蛸の浅漬けマリネと、冬の名残でもないが保存されている河豚のグリルのバルサミコ酢ソースを注文した。薮田は職務中というよりも顔に大いに出るらしくビールを飲むのは私一人。ヒトシはろくに口にせず薮田の似合わないナイフ使いを憔悴した眼差しで見ていた。
 県警の刑事たちの大層な見送りから解放されてフェリーに乗り込むと、私とヒトシ、そして薮田までもが声を合わせて嘆息を洩らした。春ゆえか磯のように慌ただしく、男三人に疲労が雲霞のように蟠っていた。小雨まじりだが海上は凪いでいて、風は昨日よりは今日、といったふうに微妙な温みを孕んでいる。平日の半端な時間ということもあって乗客は疎らだった。最近は見かけなくなった行李担ぎの行商が一人乗り込んでいた。記憶にある房州の豆売りよりは粋な濃紺のスカーフ。すでに老眼の奥の眼を赤らめて両手に缶ビールと乾した蛸足を握っていた。
 フェリーがやっと西港の岸壁を離れると、早朝からの聴取のためか、猛烈な睡魔が私を襲ってきた。それも束の間、乾し蛸商いのお母さんが蛸を鼻先に押しつけてきた。頂いてみると懐かしくうまい。素朴な味に無関心だった己の殺伐とした横顔を情けなく想った。ヒトシも気に入った様子で袋詰めを買い求めて、投薬も効いてきて気分が和んだのか、蛸足を咥えながら観光案内の空白に数式を書きこみはじめた。
 薮田はしばらく化け物でも見るようにヒトシを斜め見ていた。そして蛸を噛みながら私の隣に座って医院の住所を聞いてきた。
「ところで、先生、毒の成分を取り出すその分離というのは難しいことなのでしょうか」
「純粋な化合物として分離するのでなければ難しくはないと思いますが…私が昔やったのは青梅の種から青酸を分離したくらいで」
「そうそう、青梅は生で危ないってよく言われました。あと科警研へ送られてきたメールにあった紬鯊(つむぎはぜ)っていう魚、これもテトロドトキシンなのでしょうか」
「紬鯊?それは昨日の話には出なかったでしょ」
「ここまできたら話しますけれど、現段階ではですね、加計呂間島で使われたかもしれない毒として、その紬鯊から取り出したテトロドトキシンが有力みたいなのですよ。おそらく翠蘭の口に入ったやつもね」
「ああ…紬鯊か、思い出した…昔は台湾の部族が鼠駆除に使っていたようです。若いときですが、紬鯊のそれを使って一家惨殺を目論んだ分裂症患者の報告をセミナーで聴いたことがあります」
「へえ~河豚だけかと思っていたら…勉強してみようかな」
「勉強してみてください、失礼」
 私はそう言って露骨に狸寝入りをはじめた。
 師崎に到着するとヒトシが私の袖を掴んだ。後方の席に戻った薮田の姿が見えない。住所も伝えたことだし警察なんぞ放っておこう、と少々邪険になって降りようとした。するとヒトシが甲高く私を呼んだ。
 薮田が歩けない?警部補は昼前と逆にヒトシの肩を借りるほど引きずるような歩き方になっていた。なんとかフェリーから降りることはできたが、萎えたように歩けなくなってしまった。
「まいったね、成人病検診くらい…受けておくんだった」
「持病はあるか」と聞きながら私は薮田の脈をとった。戦慄が駆け抜けた。
「これは検診くらいで太刀打ちできるような相手じゃないぞ」
 私は応急処置どおり薮田の横腹をつねってみた。麻痺がはじまっていて痩せた腹が反応しない。脈をとり直すと心拍数が増している。呼吸困難が迫っていた。ヒトシに携帯電話を押しつけて救急車を呼ばせた。
 神経毒?私にそう直感させる概況がすでにあった。薮田を駄犬のように引きずって狭い便所へ連れこんだ。大声で語りかけながら指を入れて嘔吐させる。そして人工呼吸、何度も何度も際限なく汗だくで繰り返す。やがて脈が落ち着いてきた。救急車を待ちながら私とヒトシは未消化の蛸の欠片を見ていた。
 一命をとりとめた薮田が搬送されていくと、吐瀉物に汚れたコートの裾に水をかけているヒトシが見えた。私は繰り返した人工呼吸で息が上がったままでいる。警官が男子便所の前で港湾職員と話している。その脇を我慢できない子供がすり抜けて入ってきた。大便扉にもたれている雑巾のようになった私に気づかなかった。
 私とヒトシが新幹線に乗れたのは暮れ馴染んでからだった。三河の近海が遠ざかると何故か漠寂たる感慨を持った。それは男女の出会いに必携な劇的なる感情に似ていて私を苦笑させた。
「おまえと藍は似た者同士なんだろうな」ぽつりと置くように言って、私はマフラーの双竜に微笑んだ。
「大方はその原理に則ってカップルを作っているんだろうけれど…必ずしもセックスを伴わなくても成立するのかもしれないな、カップルは」
 するとヒトシは驚いた顔のままノートの画面を私の方へ向けた。

〇七年四月十日 午後七時五十四分
「名蔵(益子誠一) 不法滞在者摘発・賭博容疑  名古屋ビジネスドラフトソリューション(益子誠一) 売春容疑・恐喝容疑」

 私は随分と簡潔になった藍からのメールに低く唸るしかなかった。なるほど慇懃で古風な文章の取り交わしでなければ劇的ではありえない。そして我が友ヒトシに相応しい藍は「あたし」の藍でなければならない。四月二日に覚醒した自分を「藍」で呼ぶ藍は、おそらく自らの存在に怯えている者、すなわち私の患者なのだろう。削いで削いで簡潔になりきろうとしている言葉は、悲鳴、絶叫だ。語り合うことで肉体の次元をさておこうとしている、そのようなカップルも確かにありうる。しかし、それは果たして我々の希望なのだろうか。
「どうして言わないの」と言ってヒトシは浜名湖上に糸をひいた雷鳴に目を細めた。
「そのレイトンの二匹のドラゴンのように分裂してしまった藍…こんなメールを送るようになった藍とは別れろと」
「分かれろだと…人はそんな簡単なものじゃない」私は些か気恥ずかしかった。
「そのメールを送ってきた藍はおまえの藍じゃない。その藍は俺の患者だ。だからおまえが以前からの藍と語り合い続けるのは勝手だが、そんな交番日記のようなメールを送ってくる藍を…俺は見過ごすことはできない。まったく二匹のドラゴンはややこしい」
 ヒトシはかっくりと天井に向いて甲高く笑いはじめた。
「だって…だって一瞬、藍が複素数、虚数のように思えて…だって虚数はアイだから…」
 私は座席で丸まるように笑い続けるヒトシの膝を高校生のように叩いた。
「馬鹿笑いはやめろよ。あの程度の障害は押さえ込むことができるし、基本的に存在する藍は…少々神経質かもしれないが、理知的で情熱的な女性だと思う」
「分かっているよ、誰よりも」ヒトシは珍しく笑みのまま語り続けた。
「思っていたよりも若々しくてスカーフが似合っていたけれど…いくら缶ビールを片手に籠を背負っていても…分かるよ。解析し難い複雑さは、そう、一目見れば分かるよ」
 私は腐食したトタン板の肌合いから離れるように身を引いた。
「ヒトシ…何を言っているんだ?」
「時間はやっぱり残酷だね…でも本質は失われない、たとえ虚数を孕んでいても、それが皆さんの欲しがっている現実なのだから」
 鼻先に押しつけれた乾し蛸の臭い、そして濃紺のスカーフの陰の赤らんだ怠惰な眼差し、これらの記憶がページを弄り戻すように私を襲ってきた。
「随分と前の写真だったんだね…そうだよ、金閣寺だよ。昨夜見せた写真の金閣寺、金箔を張り替える前で、下の黒漆が見えていたね。もう一度見る?どうしたの?それにしても…藍って…困ったドラゴンだな。だって悪者を食っちゃうだけならともかく、正義の味方の刑事さんまで食っちゃうんだから」
 私は左手でヒトシの右肩を鷲掴んだ。そして彼の膝に置いていた右手を拳に握りこんで振りあげた。
                                       了



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Doracco翔甲   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 Q以来のウルトラ神話は、演義なる数多の神話の高峰に位置することになろう。そして流転の象徴として、神聖への犠牲として、数多の獣たちは数多の星々と同位に目されるだろう。
 ウルトラマン第二十五話「怪彗星ツイフォン」にDraccoドラコは登場する。地球近くを通過する彗星ツイフォンから飛来した宇宙怪獣で、頭部には1本の角、扇状に開閉する飛蝗のような翼を二枚持ち、白線状のひび割れ模様が走っているタイル張りのような黒い硬質な体形(どうしても濃緑の蛇紋岩を想像させる)に、腕部は鎌状になっており、空中から高速で飛来して切りつける攻撃を得意としていた。
 Draccoドラコはいかにも希少である。知る人ぞ知る翔竜型で外観はよくまとまっている。甲殻類というよりは甲虫類の肌合いと脆そうで不気味な羽を持ち、少々、鬱屈した少年のような眼が実にいい。レッドキングやゴモラのような主役になどなる気もないどこ吹く風の脇役。茶目っ気があってちょっぴり寂しげ、だから夕暮れまで一緒に山野を走りまわりたい、少年の盛夏に一匹はいてほしい翔甲、それがDraccoドラコである。

 天蚕の渋緑の訪問着をふわりと着こなして、待合室の席奥で半ば居眠っている老女。当時、八十二歳の私の母が孫娘の挙式に臨んだときである。
 花嫁となる姪は生まれも育ちも福島県の中通りで、お相手も挙式場であるホテルも郡山ということであれば、洛西に寝起きしている不肖の叔父である私も、早速に東下りに奥州入りと相成った。
 大人の女は留袖ばかり、最近は当の花嫁でさえもウェディングドレスの次のお色直しに黒々妖艶な留袖を披露するらしい。そのような留袖の大人の女である来賓や親族が居並ぶ奥に母を見つけた。あたりまえだが母は見慣れている。しかし母が着ていた着物は、衣服について門外漢の私だが、絹の光沢と感触はネクタイの締めと外しで毎日のようにお世話になっているので、抜群に優美であることを直感できた。渋緑と書いたが鈍重な暗さは微塵もなく、光線のあたり具合によっては肩や袖が燦々として淡緑に見える。母は彼女の世代としては長身痩躯の方で、亡くなって十年経つ父が酩酊すると「母ちゃんは若い頃は石田あゆみにそっくりだったよ」と茶化していたものだ。そんな痩せぎすで目つきの鋭い母を、レタスに包まったようなふっくらと柔和な婆さんに見せてしまう着物があったのだ。私は織部釉の茶碗を手にしたときのような感慨で賛美を素直に伝えた。 
「これは天蚕って言ってね、天然のお蚕さんの繭からとった絹なのね。(人差し指を立てて)幼虫が綺麗な葉っぱ色でね、これくらい大きくて…って言ってもお蚕さん自体を見たことないか…どちらにしても高価なのね。これは混ぜもんだろうけどね」
 私はくすんだ銀の照りを見せる薄緑の袖に指をのせて思った。蚕の幼虫が吐き出した糸を身にまとうという不思議がある。我々が鉄骨に住みアルミニウムに乗っている生活にあっても、身体を守っていてくれる素材は今更ながらこういった有機物なのだ。少々嬉しそうな母を見てさらに思った。世の中には女性の年齢肌、年齢姿勢、そして年齢に左右されない眼の輝き、そういった女性の本質美に合わせて自然から頂いた素材があるのかもしれない。
 京都へ戻った私は、さほどの時を経ずに三島由紀夫の「絹と明察」を手に取った。再読の後に田中美代子の解説で、真の主役は主人公の駒沢の病妻房江であろう、というくだりで唸った。小説中、紡績会社の社長夫人である房江は宇多野でひっそり療養している。しかし圧倒的な存在感で迫ってきて、結して大袈裟ではなく、この国の女とは、この国の絹(あるいは絹的なのもの)とは、そして日本とは…と熟考させられはじめた。それもこれも母のおかげである。母が着ていた絹のおかげである。
 天蚕(昆虫綱、鱗翅目、蚕蛾上科、山繭蛾科)は我が国在来の代表的な野蚕で、橡、柏、白樫などの葉を食物として全国の山野に生息している。一化性で、卵‐幼虫‐蛹‐成虫の完全変態をして卵の状態で越冬する。天蚕糸は光沢が優美で、太く、伸度が大きく、織物にして丈夫で皺にならず、暖かく、手触りもよい、などの優れた特徴があり繊維のダイヤモンドにも例えられて珍重されている。
 通常の家蚕との違いは幼虫時に著しい。天蚕は体重が家蚕の三、四倍で、体色は鮮やかな緑色で剛毛を持つ。移動性が大きく孤独を好んで群集性はない。脚の把握力が強くしっかりと水を飲む。
 どうでしょう、天蚕がDraccoドラコに、Draccoドラコが天蚕に見えてきたでしょう。

                                          了
絹と明察 (新潮文庫)

絹と明察 (新潮文庫)

  • 作者: 三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1987/09/25
  • メディア: 文庫



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L'agone水底   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 Q以来のウルトラ神話は、演義なる数多の神話の高峰に位置することになろう。そして流転の象徴として、神聖への犠牲として数多の獣たちは数多の星々と同位に目されるだろう。
 海底原人ラゴンの口許はどこかオバQに似ている、と思ったのは私だけではないだろう。オバQに分厚い唇は肝要であった。日本人にとって分厚い唇は、南方やアフリカの種族のそれ、そして鯉や鯰のそれを連想させ、肉感的で豊穣、晴朗にして安穏な象徴のひとつとなった。オバQという子供受けする幽霊キャラクターには、真ん丸な眼と分厚い唇が絶対に必要であった。
 若芽のサラダとか酢の物に箸をつけるとき、その深緑の重なりのつやにケロニアの断片を想像してしまう、私はそういう少年、さらにそういう青年だった。にきび面が頬杖をついての夢見がちを通り越して、成績が低迷している営業マンの酔眼は、現実から遥か逃避してビルの暗い屋上で膝を抱えている吸血怪獣ケロニアを見ていた。ところでケロニアが何故にラゴンの項を邪魔するか?それはケロニアの葉っぱ頭のオバQ顔を見てもらえれば一目瞭然。

 存在が先行する。存在が先行するために、存在が「見えなくなった」とか「指先に感じられなくなった」とか「音が聞こえなくなった」とかで、我々は「なくなった」という抽象的な総称を得る。なくなったことは我々にとって時間経過を強制する。全てのニュートラルな状態とは、時間経過の記憶を辿ってかつて先行した存在の再現でしかない。このニュートラルな状態を厳粛に「無」と名付けた人達がいる。これこそ無憂慮ではなかっただろうか。些か短絡で悲観的な人達だったのではないかな、と思ってしまう。

 さてもこれから海外でかなえたい夢とやらを書かなければならない。山好きならエヴェレストへ登頂したい、海好きなら珊瑚海へ潜りたい、などと明確に闊達な弁を並べられるのだろう。勢いのままに倣えば、私の場合はニューカッスルのセント・ジェームズ・パークにて、前半は時折、小雨で後半は快晴、という勝手なコンディションにあって、縦縞の選手たちを日本語で応援することである。しかし、これは夢というほどでもないし、この程度のことが夢であっては、まさに人に生まれてきた甲斐性を自分で疑ってしまう。
 林住期という言葉は、五木寛之によって改めてもたらされ、静かに中高年層に浸透してきていると思う。五十歳から七十四歳までの時期に、自分が本当にやりたかったことを見つけてやる、ことと規定されるだろうか。斯く言う私自身が、四十五歳でサラリーマンを辞して、翌年から自営を開始した身であった。あれから六年、さらりと人生五十年の節目を過ぎてみると、海外でかなえたい夢というものは、禅問答のように私を構えさせてしまった。
 そして私に三島由紀夫の「暁の寺」のカルカッタの場面が点滴のように落ちてきた。それはヒンズー教の山羊を生贄にする詳細であるが、大方は遺作「豊饒の海」の主題を第三巻「暁の寺」のこの場面にあるとしている。三島が残る安穏とした日本文化に言いたかったことも、そこから続くベナレスとアジャンタの項にあるという。若い私は啓示を得ようと何度も際どい項を追った。自分も行って見なければ、と思うやいなや、美味しい物や清楚な日本女性やエアコンなどといった現実が脳裏を覆った。そして世紀末には遠藤周作が壮絶なベナレスの「深い河」を残して逝った。あの頃、海外でかなえる夢とは、貪欲な成功や経済力の謳歌と同義だった。たしかに二十五歳から四十九歳の家住期にある青年にとっては、海外でかなえる夢とはある種、貪欲で旺盛なものであるべきであろう。
 林住期にある私に明滅した海外の風景は、三島の「暁の寺」のカルカッタの祭壇である。何ひとつ楽しくもなく幻滅するばかりかもしれない。しかし高齢化の一途を辿るしぶといだけの備蓄日本にあって、林住期の我々が、海外でかなえて持ち帰ってくる夢の一端とは、こういう苦味と困惑を伴わざるをえないのではないのか。
 林住期の親父たちよ、かつて納得のいかなかったことのために、どうも引っ掛かっていてしっくりこないことのために、海外へ出よう。自分自身のためには言うまでもなく、結して大袈裟ではなく人間全体のために海外へ行こう。

 南仏サン・レオンはファーブルの生誕地だが、三歳時にはさらに山奥マラヴァルの祖父母宅に住まわざるをえなかった。その後、近在の都市ロデーズで父親は商売をはじめるが失敗してモンペリエで一家は離散。生活のために十八歳の教師ができあがり、それはそのまま馬場文雄を想わせる。数学と物理の学士を取得したばかりの若きファーブルは、僻地とはいえ高給なので喜んでコルシカ島のアジャクシオの高校教師として着任する。野にあって反抗する人の転換点の地となる。
 南仏アルマスにて五十四歳のファーブルは昆虫記第一巻を発表する。蝉について研究し始めるとオリーブ油揚げアリストテレス風を実食するに至るはさすがである。
 
 倉吉に極実西瓜あり、甘くて肌理の細かいさくしゃりさくしゃり、ただし根が弱いので連作障害などに気を使わせる。そもそも西瓜の原産地は南ア北西ないしナミビア南東のカラハリ砂漠、原住民の生活には欠かせない。

 我々の異邦人に対する意識というものは、今もって警戒の域から両足を抜ききっていない。片方の踵はたえず構えている。そうかといって、油断大敵を枕に睡眠不足なわけでもない。大陸から遠いお陰もあってか、他国に比して悠々と就寝できてきたと言えよう。しかし片方の踵は構えている。そして現実の方向によって適当な構えが必要なことは、誰もが理解している気分がこの国なのだ。
 問題は視点のあり方だと思う。視点のあり方によって、異邦人に対する意識というものが、招来を喜ばしく思える大歓迎ならば、その視点を見極めなければならない。そして見極めた視点の先にあるもの、それは加害者意識なのではないだろうか。温もりある握手を求める被害者意識から、冷徹な距離を保つ加害者意識へ転じてみたとき、身勝手でおせっかいな干渉と揶揄されながらも、大いなる関わりが見えてくるような気がする。
 我々、日本人に必要なことは、加害者意識である。
  
                                     了
林住期 (幻冬舎文庫)

林住期 (幻冬舎文庫)




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カラマール   Mye Wagner [詩 Shakespeare Достоевски]

 Calamar
 ミゲル・デ・セルバンテスによるラ・マンチャの変態騎士の冒険談、これを読んだことがある、乃至は読んだことがなくても、ドン・キホーテの名を知る人々は地上に数多おられることだろう。しかし彼の妹の遥かなる子孫、もちろんドン・キホーテではなくミゲルの妹の子孫であるが、どうも経年を感じさせない真新しい羊皮紙に綴られた家系図を持ち、セルバンテスの血筋の子孫だというメンドゥーサ家の長男フェルナンド、彼によるお菓子本「タルタ・デ・カリブTarta de Karib」を知る人は果たして何人いるだろうか。毎頁ごとにtartaタルタ(パイ)やpastelパスティー(ケーキ)の写真を配した、七十頁に満たないB5版の冊子の売上を、フェルナンドを知るカルタヘナ中の売店の主たちは、いつも苦笑しながら即答することができた。黄色地に木炭書き風のゴシック書体Tarta de Karibが走る表紙の冊子、これが書籍だけ居並ぶ書店には一冊も置かれず、煙草やマテ茶と一緒に売店に並んでいるのには理由があった。フェルナンド本人曰く「他の料理本なんかと一緒に置かれるのは時間の無駄さ。目の前に広がるカリブのこと、ここカルタヘナのこと、そして彼らカラマールのことを、世界中から集まる観光客にこれらを目敏く知ってもらうためには、こういう売店に置いてもらうに限る」ということだった。
 フェルナンド・メンドゥーサは一月二十日がやってくると三十歳になる。この一月二十日という日はカルタヘナ市の創立日でもある。よって八〇年の一月二十日に生まれたフェルナンドの子供時代は、本人の精神年齢や自覚は別として概ね二十世紀に相当した。その頃は些かお目出度い日に生まれてしまった程度のフェルナンドだったが、新世紀になって 一端の大人として高校の古典教師として赴任した頃から、誰もが知るチューリッヒの食品会社が運営する滞在型の総合病院へ通院するようになった。本人曰く「帰宅するときにカラマールに撃たれたんだ。そう、カラマリ族だよ。見てよ、カラマリ族からお尻のここに毒矢を射ち込まれたんだ。あれ以来狙われ続けて、通算六本をお尻に射ち込まれたよ。ただね、命を奪おうという気はないみたいで、毒矢の毒も蛙の毒のような強烈なものじゃないんだ。ずっと考えていたんだけれど…警告だったんだね」との言によってTarta de Karib作成の運びとなった。
 カラマリ族はCalamarカラマールと呼ばれていた先住のインディオである。襲来してきたスペイン人たちは、カリブ語のKaramariの音に烏賊のCalamarをかけて長らくそう呼んでいた。アメリカ大陸における膨大な殺戮の記憶の一つである。彼らカラマールにとっての忌まわしい日々は、ロドリゴ・デ・バスティーダスの上陸から始まった。彼らは戦闘果敢に毒矢や火矢を射続けて激しく抵抗した。血族を残す家系は今でも勇敢さを誇っている。しかしロドリゴからペドロ・デ・エレディアまで、延々三十年に渡る抵抗の記録も、カルタヘナ市創立の一五三三年一月二十日に呻き声を引きずりながら途切れる。多くが内陸部の奥へ移動を余儀なくされるか、漕ぎ手や運搬者として隷属するしかなかった。かくして近親の部族の写真をもってカラマールの往事を想像するしかない昨今、なんとメンドゥーサ検事の長男が、市中にあってカラマールから毒矢を射られたと言いだしたのである。
 フェルナンドを幼い頃から知る院長は、串のような細い矢で傷つけられた臀部の写真を見て「フェルナンドお坊ちゃまの登校拒否はまだ続いているようだな」と呟いた。リマからやってきたばかりの若い精神科医は、カラマリ族が狙っている時刻や聞こえたという内容から薬物使用を疑い、矢の毒を分析すると称して徹底的に血液検査を行ったが、滞在治療の水準を欧州並みと自負する当院も検出には至らなかった。そしてアロンソ・メンドゥーサ、つまりカルタヘナでは名士でもある彼の父は、例によって悠長に構えて誰よりも冷静に「しばらく投与してみてくれ、安定剤でも、Chocola Caliente(ホット・チョコレート)でも、何でも構わないから」と言ってPlaya Blanca(白浜)の賑わいに目を戻した。

 メンドゥーサ父子が卓を挟んで昼食をとるのは久しぶりだった。店は旧市街に人目を避けるようにあるLa Perlaというペルー料理店だった。「折り入って話したいことがあるので」と連絡してきたフェルナンドは、メニューを凝視する父に向かって放り込むように言った。
「僕がここでいつも注文するのは、Ensalada Nikkei(日系サラダ)とSquid tinta ravioli(イカ墨のラビオリ)、Nikkeiっていうのは日本人移民のことだよ」
「それくらいは私も知っているよ。ここは日系ペルー人がやっているのか?」
「どうだろう…女友だちに連れてきてもらって、気にしたことはなかったよ」
「女友だちができたのか…お菓子の本を作ってみた後は、その女友だちと合作のペルー料理の本かい?」
 白髪で美男のアロンソはそう言って仰け反るようにメニューを手放した。
「私もそのNikkeiとラビオリを試してみよう。さて、折り入って話したいこととは?まさかブェンディアーノ大佐がカラマールを追い払ってくれたわけでもあるまい」
「カラマールの研究は続けていくよ、カラマールの誇りは見習うべきだと思うので…もちろん、父さんのことも尊敬している…」
「まったくおまえのカラマールには驚かされる。ここの烏賊は大丈夫だろうな…」
「父さんが驚くなんて…もちろん、母親がいない分だけ、多忙な父さんに心配をかけ続けてきたのは…申し訳なく思っているよ」
 父アロンソは微妙に狼狽したらしく、俯くようにメニューをまた取って開いた。
「本当に僕は愚かだった、叔母さんのヘアピンで自分の体を傷つけるなんて…父さんに反抗するにしても、もっと男性として…やり方があったと思う」
「私だって驚く…驚かないのは検事の顔で、今の父親の顔としては多分に驚いている。カラマールが毒矢を撃ってきたときには、マコンドの地図などを作っていた読書三昧の息子に、砦で踊って自決した親父の体質が現れたと…」
 フェルナンドは萎んでいくような父を見て目を泳がせるしかなかったが、熱い息を呑み込んでから角を突きあわせるように俯いた。
「父さん、結婚したい女性がいるんだ…さっき話していた女友だちで、日本人なんだ」
「そうか…ペルーの日系人かい?」
「Yokkaichi(四日市)から来た日本人だよ」
「Yokkai…そこは日本なのか?」
「Goddzilla(ゴジラ)が上陸した港湾で…ここと同じで魚や貝が美味いらしくて、子供の頃は夜の波止場で烏賊を釣っていたそうだよ」
「Goddzillaは聞いたことがあるが…」
 父は一仕事終えたようにがっくりと仰け反って店内を見まわした。そして息子に午後の予定を訊ねてから膝を軽く叩いた。メニューを振りかざしてシャンパンを注文したが在庫していない。仕方なく、いつものAguardiente Blancoを注文するメンドゥーサ検事だった。

                                       了
誘拐の知らせ (ちくま文庫)

誘拐の知らせ (ちくま文庫)

  • 作者: G・ガルシア=マルケス
  • 出版社/メーカー: 筑摩書房
  • 発売日: 2010/11/12
  • メディア: 文庫



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天府にて   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 サリカと巳緒(みお)は、丼鉢のような大きなアイスクリーム缶を、突き合わさせた膝の上で互いの左手で支えながら一本のスプーンで味わっていた。
 そこは天府、マレー語でいうクアラルンプール、その頃では世界最高を誇っていたペトロナス・ツインタワーを振り仰ぐ店舗回廊の入り口である。正午を過ぎたばかりだった。二人の純白の綿シャツの袖は、灼光を避けるべくか普段のように長い。そしてタイでの合掌に慣れ親しんだ二人には、恐る恐る見上げるツインタワーの尖端は異教の象徴に見えていた。
「ワイをしても」とサリカはスプーンを休ませて言った。「手を合わせても、笑ってくれるだけ…言葉が通じにくいのは分かっていたけれど。先生は言っていたでしょ、南アジアではワイは通じる、先生の日本でも分かってもらえると」
「ここは違うわ」と巳緒は陽を斜め見て言った。「ここは都会でもバンコックとは違う。バンコックよりも英語が通じる…イギリスの植民地だったからね、この辺りは。ここなら日本よりもタイ語が通じると思ったの?」
 サリカはうな垂れるしかなかった。十六歳になった彼女にも分かっていた、その道では孤立言語として分類されるタイ語が隣国では通じないことは。生まれ育ったのは標準的なタイ語が話されるチェンライ県メースワイ村、そこにあるヴィタヤコム中学校を卒業して首都バンコックの日系繊維会社の現地工場に就職して八ヶ月、儚い若さと美貌を赴任していた「トウキョウの人」に賞賛されてハイヒールとブレスレットを買って貰い、先月初めにはパスポートを作成して「トウキョウの人」とシンガポールを観光旅行できた。そして先月末になると「トウキョウの人」は日本へ帰ってしまった。
「どうしてここだったの?」
 ヴィタヤコム中学校の教師勤めも七年めを過ぎていた巳緒は、預けられたスプーンを缶ごと押しつけ返すようにして聴いた。
「どうして…よりによって日本人なんや、ほんまに…」
 巳緒は思わず日本語で呟いてしまった。そして教え子の白い首筋の僅かな日焼けにそっと右手を伏せる。漏らしてしまった日本語の先にある記憶、それは赤錆色の汚れ溜りが縞をなしている水色の波トタン屋根のリス族の住まい、狭い部屋の壁に貼られた褪せた男女の写真だった。かつて人類学者を装った日本人の若い男がメースワイ村に現れた。男は竹笛ばかり吹いていて女子供を集めていたが、少しずつ農作業を手伝うようになって長老たちにも認められていった。多忙と察過を極める日本では信じられぬような拍子で、男は村一番の怜悧な美少女を妻に娶とり、翌年に女の子が産まれ三年後にサリカが産まれた。彼女の父親は「トウキョウの人」なのである。小太りで色白の父「トウキョウの人」は、サリカを一度も抱き上げぬうちに姿を消してしまった。
 サリカは一口掬って放り込んでから缶をそっと押し返した。
「日本語って世界一難しいんでしょ?」
 巳緒は随分前に自分が教室で語ったこと、それを大人の女になったような教え子の口から聴いた。シャツの襟に焦燥に似た汗ばみが滲んだ。
「あたしはアホウ(阿呆)でした。先生はアホウでした」
「アホウ?アホウってよくない日本語なんでしょ?」
「日本人はね、殆どの日本人はね、英語もまともに話せないくせに、自分の国の言葉、日本語が世界一難しい、なんて本当に信じているの、他の国の言葉を学ばないで、比較する外国語を机上に並べもしないで。こういう日本人をアホウって言うのよ」
 サリカは沸々と噴出すようにすすり泣きはじめた。
「日本の男はアホウばっかり…前にも話したかもしれないけれど、先生の実家はね、羽曳野という町で花屋をやっているの。今でもなんとかやっているようだけれども…父は痛風とかでアホウのように動かないから、朝早くから忙しくしているのは母だけ。聴いてる?そもそもさ、花屋を始めようなんて言いだしたのはアホウな父なんだよ。ソウル・オリンピックの年だったな、銀行員だったアホウが勤めをやめてさ、祖父ちゃんの葡萄園を売却しちゃってさ…」
 巳緒はそこまでタイ語を置くように語ってから唇を噛んだ。
「だからさ、そんなアホウの息子たち、それに孫たちもやっぱりアホウなんだよ。タイに来るのにさ、ワイとトムヤムクンで済ませようと思っているんだからドアホウなんだよ、日本の男は、トウキョウの人も、カンサイの人も…」
「世界一難しいのは…タイ語?」
 巳緒はもらい泣きした鼻水を啜り上げながら苦笑した。
「そうだね…母音だって九つあるし…校長が言ってたけれど、あたしの声調だって未だに変なんだってさ。聴いてる?まっ、仕方ないか、アホウの娘だからね」
 サリカがまた沸々と笑った。そして夕暮れが降りてくるまで「アホウ」と「ドアホウ」の使い分けに執着していた。

                                       了
あつあつを召し上がれ (新潮文庫)

あつあつを召し上がれ (新潮文庫)

  • 作者: 小川 糸
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2014/04/28
  • メディア: 文庫



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林百貨店の社   梁 烏 [詩 Shakespeare Достоевски]

 そのツォウ(鄒または曹)族の娘は、阿里山の麓からやってきた。文化人類学者の勝手な分類では、阿里山中腹に住み続けてきた北部のツォウ族は「阿里山ツォウ」と言うのだそうである。クバという男子集会所を中心とした厳格な父系社会で、そのツォウ族の娘も随分と厳つい頭目を遠目に見て生活してきた。そして目鼻立ちが明確な美男美女揃いで、そのツォウ族の娘も随分と美しかった。
「はあ…そうなんだ、日本語が分かるんだ…」
 肖蘭(ショウラン)は思わず日本語で呟くように言ってしまった。
 そのツォウ族の娘は震えるように頷いた。そして強い眼差しを慌てて肖蘭の尖った爪先に戻した。
「何か話してみせてよ…そうだな、あたしの日本語の台詞とか」
 そのツォウ族の娘は、戸惑いをかなぐり捨てるように頷いた。そして慌てて腕を胸元に組んで背筋を立てた。
「あたしたちぃ…あたしたち日本人はね、華人はちょっとは認めているけれど、あなたたち蛮人は認めていない。人として認めていないんだよ!」
 肖蘭に酷似した声がダイニング・テラスの隅々まで響き渡った。彼女たちの傍らを過ぎる客を硬直させた。
「ほぅ…そうなんだ、政子が好きなんだ」
 肖蘭の退屈だった一週間の終わりに油滴が落ちた。飴色の確かな油滴だった。そして背後で驚愕しているマネージャーを仰ぎ見ながら言った。
「そうか…なるほどね、製糖工場の意地悪な奥さまが好きなんだ」
「肖蘭さんが…肖蘭さんが演じられた政子は大好きです」
 そのツォウ族の娘は、胸元を上下させて呑み込むように言った。
「そうなんだ…あたしも好きだよ、あの政子は、蛮人の友だちをつくりはじめる政子は」
 肖蘭はまた呟くようにそう言ってから、黄色い三輪トラックの前で色紙やカメラを持って群れる少女たちに微笑んで見せた。落雷のような歓声が揚がる。押しも押されぬ女優になった肖蘭こと梁鳥優子(やなどり・ゆうこ)は、掃天の晴れに自然な笑顔を向けた。台湾の美人女優だろうが、台湾で売れた日本人だろうが、正直に幸福だった。
 そこは台南の五棧樓仔なる林百貨店の五階である。日本統治時代にあってエレベーターを備えていた末広通りの百貨店は、台北の栄町にあった菊元百貨店と並び南北二大百貨店ともいわれた。戦後は改修されたものの、一九九八年に市定古跡に認定されてから本格的な修復が開始されて二〇一三年に完成を見た。
「そう、あそこをやってよ、政子がオビンと、やがて初子の名前をもらうオビンにお礼を言う場面」
 そのツォウ族の娘は待ちかねていた皿を差し出されたように頬を紅潮させた。
「オビン、あなたの手を見せてちょうだい」
 そのツォウ族の娘は旋回するようにマネージャーに寄って中年太った手をとった。
「オビン、あたしはあなたの、この手が好きよ。流されるあたしを、しっかりと掴んでくれたこの手、この手は命の恩人の手だわ。ああ、しっかりとした父さんのような手だわ。オビン、あたしの傍にいて、ずっとあたしの傍にいてほしい」
 肖蘭はまた虚空を見上げて拍手しそうな手を胸元に翳した。
「いけないわ!オビン、あたしはあなたを拘束しようとしている。あなた達を拘束して、あなた達の自由を奪おうとしている。ああ、あたしは駄目な女、駄目な日本人…オビン、あなたさえ良ければ、こんな駄目なあたしの友だちになってくれないかしら」
 肖蘭は三輪トラックの方へ大きく頷きながら拍手した。間髪を置かずに少女たちの拍手が歓声をもって続いていった。
「そうか…なるほど…で、それで名前をもう一度教えてくれる?」
「玉界(チョウチャ)です」
 肖蘭はしなやかさを誇示するように立つと、玉界の両肩に手を置いて「仍在增长(まだ伸びそうね)」と呟きながら自分の椅子に座らせた。そして玉界の額にかかった髪に触れてから首を傾げる。考査中と思いきや、決めたように反転して少女たちの方へ向かってサインや握手を嬉々とこなしていった。
「玉界、こんな駄目なあたしと働いてみる?」
 玉界は背後のマネージャーに肩を叩かれて啞然と揺れた。
「玉界、この上の屋上に社(やしろ)があるの知ってる?社は神社、日本的神的聖殿(日本の神さまの社殿)…ともかく一緒に社を拝みに行こう」
 肖蘭は手招きながら階段の方へ歩きだした。
「玉界、あたしは政子をもう一度、撮りたいと思っているの…そう、あたしが撮るの、監督で。あそこ、あの社の前、戦前の百貨店の社を政子が拝んでいるところから始まって…あそこ、最後は今の社、だからあそこ、あそこを政子の孫が拝んでいるところで終わる…あなたをここへ呼んだ甲斐があったわ」
 社は屋上の望遠鏡の台座のようにあった。戦前の社は一般非公開の産業の守り神として鎮座していたらしいが、玉界が見る目の前の社は、枯れ樹を模したコンクリートの彫塑のように見えた。

                                       了
台湾・少年航空兵―大空と白色テロの青春記

台湾・少年航空兵―大空と白色テロの青春記

  • 作者: 黄 華昌
  • 出版社/メーカー: 社会評論社
  • 発売日: 2005/09
  • メディア: 単行本



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オードリー・エリス   Naja Pa Sue [詩 Shakespeare Достоевски]

 オードリーの部屋からテムズ川は見えなかった。家賃を分担している同居人、リンダとイングリットからすれば、テムズの小波が臨めるような部屋であれば家賃が払えない。しかも三人がやっと食べているところに、イングリットの「ラヴリィ・ラブラドリー」のヘンリー、そしてオードリーの「ポンド・タートル」のルイ、この大小の二匹が扶養を求めていた。実際にここのところ、ルイの簡素な朝食はヘンリーの耳裏についていたダニが続いていた。それでもヘンリーが度々陥いる境遇からすれば、何かしら与えられるだけでも良しとしなければならない。なにしろヘンリーの飼い主イングリットときたら、分厚いハイデッガーを小脇に抱えて、バッターシー・パークの木陰にゆらゆらと消えたら最後、その晩はもちろん、夏場なら二日間ほど帰らないことなどは度々であった。
 同居しているリンダが、バッターシー・パークの池の辺でジオンゴ兄弟と読み合わせをしていた時も、いきなり植込みから白いコートを着て寝乱れたようなイングリットが枯れ枝を持って現れたので、兄弟は気味悪がってありもしない用事を思い出して逃げてしまった。リンダは家族同然に生活しているのでイングリットの奇行には慣れている。その時はともかく傍らへイングリットを座らせて、まず詩想だか瞑想だかが何日目かを問うた。まだ二日目だったのでリンダは軽く肩をすくめて、ヘンリーはさほどの空腹を感じるまでもなくもう一人の同居人オードリーが買い置いた愛犬用フードにありつけた。
 オードリーがイングリットをワンズワース通りでやっと見つけた時は最悪である。保護された時のイングリット曰く、その通りに面した屋根裏部屋に住んでいる老婆が、時折、ヘルダーリンの霊にとりつかれるらしく、話せるわけもないドイツ語で詩らしき言葉をもらすので、彼女は老婆のもとに五日間泊まりこみ聞き漏らさず書きとめていたのだ、と。ともあれヘンリーは飢え死にするところを故郷アバディーンから戻ったオードリーに発見された。その時、ルイとヘンリーにとっては飼主よりも親身なリンダは、父親の故郷のナイロビの高校で演劇指導をしていた。

「ヘルダーリンの霊に仕立て上げたのはあたし自身なの…」
 慣れきった非難が放屁のように発散しきると、亜麻色の髪を束ねたイングリットは、ベーグルを頬張りながら焦げ茶色のラブラドリーの頭を撫でながら言った。
「彼女の祖母がハイデルベルク出身と聞いたら、あたしの右脳が左のこっちの耳へ古代ゲルマン語の鼓膜を再生させたの…」
 後頭を刈上げたものの垂れた黒い前髪をたえず気にするオードリーは、小蛾の幼虫を沼亀に与えていた。
「あのお婆さんはなんて言っていたの?」
 イングリットは凄みのある上目遣いに変わってベーグルを置くと、トレードマークのようになっている脱ぎ捨てた皺くちゃの白いコートのポケットから手帳を取り出した。
「彼女は売春で検挙された後に半年間ばかり牢獄に繋がれて…ここのところが素晴らしいわ…お金について牢番が教えてくれました、昔は食べられればいいと思っていたので、フラット・フォードの農民に付いたこともある、三日目の晩に農家の主人は林檎酒を振舞ってくれて言った、よく働いてくれているがどのような目的をもってここへ来たのだと、若かった牢番は言った、食べることができればいいと、主人曰く、食べるために食べ物をつくりだす農業や牧畜、確かに我々の仕事は神聖への入り口だ、しかし君と同じような魂胆で穀物取引所で働き疲れた若僧がここで働いたことがある、この林檎酒を飲んで何と言ったと思う、大いなる者へ至る、それがこのように不味いことはそれでいい、しかし、蜂や羊に話しかけても、ウィラーズの給仕やキャノン・ストリートの駅員のように応えてくれやしない。いいわね…」
「哀しいの?…楽しいの?」
「この哀しみが分からないなんて…このあとはね、若かりし牢番が、頑固に自分には神聖も何もなく、食べられればという現実だけに生きるのだと言ったら、主人はわかったと言ったあとに続けて、充分に食べられると仮定する、ところで君は女が好きか?男が好きか?と問うたら、牢番はもちろん女が好きだと答えた」
「つまらない、彼は単なる普通の男じゃない」
「聞いて…主人は頷きながら言った、我々は婚姻する、食べられれば次には婚姻する、ところが婚姻には豚三頭と同額の結納金が必要なのだ、豚三頭そのものでは駄目なのかと牢番が聞くと、農民は構わないと言う、続いて必ず婚姻しなくてはならないものなのかと聞くと、農民はそうでもないと言う」
「つまり結納金だか豚三頭だかがなくても、婚姻届を出さなくても、牢番はその気さえあれば女を愛せるっていうこと?」
「聞いて…つまり牢獄で牢番が彼女に教えてくれたことは、お金というものはフラット・フォードのような農村であれば、豚三頭もしくは結納金というこちらから関係する価値観となるのに、ここロンドンでは、ウィラーズの給仕やキャノン・ストリートの駅員からの言動を待つ…つまり関係される価値観になるのよ」
「お金が関係される価値観じゃいけないの?弱くて関係されることを待っている人は哀しいわけ?甘ったれやさんや寝たきりの老人がそんなに哀しいわけ?」
「哀しみを知らなくては…だって受身の生活、待つ生活に芸術はありえないし、芸術を知らない人間はお金と能動的に関るしか健全な生きかたはないという…これもまた哀しい」
「あなたの言うことに従えば、あたしの田舎、あたしのスコットランドなんて…まったく健在じゃないわ」
「スコットランドは知らないけれど…結局はお金に関らない感性というものだけが、偽善ぶるわけじゃないけれど、次なる生きかた、つまり芸術なんだわ」
「あなたは世俗を見て、世俗を否定し、自分の芸術を高みに据えようとする…あなたはあなたが書く詩のように高尚で結晶化しようとしている…偽善なんて言わないわ、それこそ純粋な悪よ」
 リンダは度々、ルイとヘンリーの飼主の間にも立たざるをえなかった。イングリット・プリンツとオードリー・エリスは、ネッカー川の鯉と北海の鱈とが比較にならないように、飲んできた水から生き甲斐とするそれぞれの芸術の生活との関り方まで違っていた。

 イングリットはハイデルベルクのホテルの長女に生まれて、時折、スウェーデン人や日本人の宿泊客にその愛らしさを称えられながら健康に育った。幼いおりは終日メンヒホーフ広場で遊び、少女の頃は対岸のビルケンバンクの小道から藪に入り込んで、後年のさ迷いを予感させてはいる。まだヘルダーリンという名前はビスマルクとさほど変わらぬ響きであった。すべての甘美な憂鬱は「黄金の羊」の窓辺ではじまる。休暇中のコブレンツの保険屋は相席の礼の後に、イングリットが帰ろうとして閉じた「赤毛組合」を目にして話しかけてきた。彼女は恋愛においても人一倍に没頭した。寝食を忘れて保険屋の初恋だった教師の姿へ近づこうとする。彼女が髪を結い上げてホームズを凄い勢いで通読してしまった頃、保険屋は契約の失敗で塞ぎこみ酒に溺れはじめた。したたかな業界で生きるには優しすぎる男だった。怖れていた時はきた…河岸のマールスタールでの簡単な食事が最後となって男は現れなくなる。コブレンツの保険会社からも姿を消した。二年後、イングリットは講師に薦められたコンラッドの背景を追って渡英した。

 オードリーは就職雑誌のホテルの項目を開いて渡して言った。
「キャドガンから…もう来なくてもいいって言ってきたわ」
 イングリットは恐る恐る左手で受け取って、右手のベーグルを頬のそばで止めたまま声をつまらせた。
「…あたしには、やっぱりホテルの清掃婦の仕事…でもプリンツさんは、もう海に出るしかないのね」
 オードリーはルイの小指ほどもない頭に鈍く光る眼から目を離さずに言った。
「貨物船や原油タンカーに女の子が乗ってどうするのよ?やっぱり海へ出ても、客船の清掃婦…あなたには詩人としての才能があって、ホテルに縁あって生きる運命があるのよ。リンダには芝居書きとしての才能があって、脇役者に縁あって生きる運命がある。あたしには…かりに小説家としての才能があるとして、肉屋に縁あって生きる。素晴らしい運命だわ」
 その頃、リンダ・ファティマは暗くなりかけたナイロビ郊外の校門前で、かつての担任教師から夕食に誘われていた。

 リンダは今でこそ人手に渡ってしまったが、ナイロビ随一の映画館の末娘として生まれ、父と長兄がフィルムをまわす傍や母と次兄がポップコーンを袋詰めする側でこれまた陽気に育った。父はビスコンティに凝っていたが映画の芸術性を説くような気取った風采を見せず、リンダには自分がニ度行っただけのロンドン行きを薦めて、彼女が朗読するオフェリアの台詞を激賞して悦にいっていた。そして十五歳になった夏、ロンドンのビリンガム子爵から招待状がくる。子爵に付きっきりの家政婦が、子爵の支援でアフリカの少年少女から年に一人づつ選抜してロンドンを見せているのだ。とにもかくにもリンダは憧れのピカデリーとグローブ、そしてロイヤル・アルバート・ホールの座席に小さな腰をのせることができた。正式にロンドンで学べるようになると、子爵一家の口添えもあってBBCのドラマへの出演などもかない、「チョコレート菓子」と称えられるままに学生時代を終える。しかし彼女は自分が戯曲を書きたいのだということを、映画館の隅で早くから自覚していた。脇役や演劇指導を続けながら今日まで書いてきて、気がつくと三十一歳になっていた。ニ歳下のイングリットと一緒に住むようになって四年になる。現在のアパートに同棲していた舞台美術家から、チェアリングクロス通りで突然に詩を書くドイツ人女性を紹介される。無謀で放恣、そして勝手に書きとばす詩才にリンダは魅せられて、倦怠感が臭っていた男が出ていくと喜んで彼女を迎えたのだった。

「明日の迎えは今度はあなたが行ってね、また荷物があるでしょうし」
 オードリーはルイが入っている水槽を出窓まで持っていって、素焼きの壷を慎重にずらしながら言った。
「リンダのことだから…あなたが喜ぶようなこういう抽象的なお土産を持ってくるわよ」
 イングリットは頷きながらヘンリーの首輪の下についていた蟎をシャーレに入れたところだった。
「明後日、ここへ…ケニルワースへ行ってみるわ。このあたりは懐かしいし…ありがとう」
「懐かしいでしょうけれど、採用されたらキャドガンへ行く倍の距離は充分にあることはご存知でしょうけれど…おやすみなさい」

 オドーリー・エリスはアバディーンの水道工事の請負業者の一人娘として生まれた。老若混じった配管工を八人ほど使っている豪胆な父と、ロンドンの肉屋で生まれ育った少々繊細な母は、今でこそ二人とも老いて静かになったが、オードリーの十代が終るまでは顔を合わせれば言い争いをしていた。男臭い環境も手伝ってか、あらゆる女性的な興味に距離を置いて高校を卒業すると、重労働ながら収入がいい鱈の加工工場に勤めた。そこで漁船に乗る無口で線の細い少年と出会う。少年は文学の欠片にも無縁な少女に熱くコンラッドについて説いて聞かせた。結婚を約束した互いに二十歳の冬、ターバートネス岬が見えるあたりで大人じみてきた少年が乗った漁船が転覆する。傍目に見れば、彼を失ってからもオードリーの生活には何ら変化は見られなかった。しかし就業後のパブでの陽気な宵からは遠ざかり、コンラッドを何度も繰り返して読みまくり、解説文を載せていたロンドン大学の教授に手紙を書いていた。両親は頑固な一人娘のロンドン行きに反対する気もなく、母の甥、つまりオードリーの従兄弟が経営する肉屋へ当座の職を依頼した。鱈から牛の枝肉に変わっても彼女の精勤ぶりは坦々としていて、休日には故郷を舞台にした漁師の小説を教授に見せて意見を聞き充実していた。そして一昨年の晩冬、教授はオードリーと同じくコンラッドを耽読していて奔放な詩を書く四歳年上のドイツ人を紹介する。イングリット・プリンツは、少々野卑な感じもする少年のようなオードリー・エリスを初対面で気に入ってしまった。同居人のリンダ・ファティマも感性の違いを直感したものの、男性的な立ち振る舞いに魅せられてイングリットが薦めた同居の願いを歓迎した。

「マツォーバ!舌を噛みそうな名前…そう、ムツツゼリ、ムツツゼリ・マツォーバ!知っているわ!」
 イングリットはピカデリー線の座席でリンダの大きな鞄を抱えながら興奮していた。
「そのマツォーバの『戦争の種子』を脚色した映画の主役なんて…その監督とは最初にどこで会ったの?」
 リンダは唇に人差指をあててイングリットの興奮を抑えて、ナイロビまで電話をしてくれた元愛人の舞台美術家に感謝しながら、自分を抜擢してくれた監督に出会うまでを辿りはじめた。
「ヘンリーが珠に世話になる有名なトリマーの店があるでしょ」
「ジルの店?」
「そう、あの店のすぐ近くで、あいつに、一緒に住んでいた男に『スタッフライダー』の編集に携わっていた人を紹介されて、翌週にその人の友人の神父からメイフェアに泊まっていた監督に会わせてもらったことがあるの」
「運命なのよ…オードリーが言っていたわ」
「あの雑誌はマツォーバが度々寄稿していて、監督はすでに『スタッフライダー』自体を、あの雑誌の編集人の生活それ自体を、映画化したいという意欲を持っていたわ」
 イングリットはリンダの事とはいえ、滅多にない喜びの渦中に自分があることを自覚していた。地下鉄の窓に引き摺られる夥しくも弱々しそうな光の群れ。そしてその歪曲した黄光の中に映る人々の無機質な顔に向かって言ってやりたかった。ここに成功する芸術家がいる。午後の地下鉄に満ち満ちている哀愁は嘘だ。リンダを乗せた地下鉄は南アフリカのソウェトの闇を切り裂くだろう。この地下鉄は白い倦怠ばかりを乗せているように見えながら、実はリンダやあの男の子、そしてあそこにもたれている男女など、黒い希望をちりばめて飛んでいる鉄箱なのだ。イングリットは口を半開きにしてあらためてこの乗り物の天井を凝視し続けた。
 リンダはイングリットの視線を恐る恐る遮って言った。
「大丈夫?気分が悪かったら降りる?」
 イングリットは満足げに目を閉じて首を振った。
「公園の藪の中では知らない人に出会うことを怖れながら…実は知らない人に出会いたかった」
「分かるわ、人は慣れて、人は飽きるものだから」
「愚かだったわ、いつも枯れ枝のように鳥や木の葉に耳を澄ませて、守銭奴を罵るばかりの毎日」
「そういうあなたにしか書けない詩があるのよ」
「違う、リンダが映画に映る喜びがあたしを昂ぶらせて、闇の中を突っ走る共感を発見させたのよ」
「この地下鉄のこと?」
「そう、地下鉄、素晴らしい地下鉄…アフリカ、アジア、そしてドイツ、地下鉄こそは故国との別離にも怯まず生活している人が、乗って身を委ね闇の中を突っ走る閉じた箱」
 その頃、オードリーは従兄弟から初めてポンドごとのステーキ・カットの手ほどきを受けていた。

「演技の一から十まで教えてやって、お腹が空いていると思って、キドニーばかりだったけれど週末にはパイをもっていってあげたのに…あの兄弟こそ恩知らずだわ」
 リンダはフィッシュ・アンド・チップスの紙袋をオードリーへまわしながら吐き捨てるように言った。
「そう言わず…白鳥が女王のものだって誰が決めたのかしら…」
 オードリーは揚げ物を摘むでもなくテムズ川で身繕いする群れを見ていた。
「そうね、ジオンゴ兄弟はお腹を空かせている時に、あの白い羽を毟ってローストして食ってしまいたいってよく言っていたわ」
「あたしの姉さん、リンダはやっぱり強くて才能があるわ」
「才能はともかく、ソウェトの女が白鳥を食ってしまう場面を監督に相談してみようかしら」
「そこだけでも早く見たい…そして、来年のクリスマスにはジオンゴ兄弟を『ルールズ』へ招待するといいわ」
「やめて、たった一本の映画へ出演するだけで裏切り者呼ばわりするような連中は、嫌みったらしくからかう気もしないわ」
 オードリーはつられて笑いながらも、ここしばらくテムズ川の辺にあると必ず湧き上る思いに鬱屈となっていた。それは沼亀のルイをこの豊穣な流れに放そうという思いである。一昨年の真夏、トッテナムコート通りからブルームズベリー通りへ至る細い路地で、英語を話せないポーランド人の行商が鶏の雛と沼亀の幼生を黙って売っていた。オードリーは行商の男の灰色の瞳に何人かの漁師を見てしまった。剥き出しの小亀を買い求めていささか乱暴に鞄へ入れる。地下鉄に乗っている間に死んでしまったら、かけておいたハンカチーフとともにまるめて捨ててしまおう。リンダのアパートメント・ハウスへ帰ってみると、ヘンリーはイングリットに珍しくジルの店へ連れていってもらったらしく小奇麗だった。後悔しながら鞄をあけると、翌日からルイと名づけられた小亀はノートの上で震えながら首を出した。あれから一年が過ぎて、ルイは親指大から十本入りの紙巻煙草の箱ほどになった。そして、鱈漁師はやはり岬の波間に消えてしまっていて、三百二十四枚の小説が書きあがっていた。教授は相変わらず細部を指摘していたが、オードリーの胸中では次の小説の女主人公が見え隠れしていた。同時にルイをテムズへ放す思いが痛いように駆け上がってくる。いつか放すだろう、ではなく、今日という日の午後にでも放さなければならない。オードリーが決意して立ち上がると、リンダは肉屋の店員の荒れた手を握って言った。
「あたしのつまらないお芝居…この書き溜めた戯曲の原稿、あなたに持っていてほしいの、これから六年は映画界でやってみたいの、勿論、脇役でもエキストラでも構わないから」

 オードリーが夕刻にグリーンパークで乗り換えると、やはり真中の一番混む車両にイングリットが潰されるように座っていて一心不乱に書いていた。時折、乗客の背の間からボールペンを止めて中空を睨み上げている様子が見える。オードリーは苦笑いしながら鞄から新聞の切りぬきを抜き出した。そして声に出して読み上げてみた。
「ロンドンはもう充分でしょう、あなたも自然の中で働いてみませんか、養豚農家の息子たちはお嫁さんを欲しがっていますのでロマンスはあなた次第、ウェールズのランドベリーでクリスマスを迎えませんか…」
 昨日、オードリーは店の女将から、つまり従兄弟の妻から突然に解雇を言い渡された。生粋のロンドンっ子で主人である従兄弟以上に幅を利かせている彼女は、何度も理由は単なる口減らしで昔から使っている従業員を切るわけにもいかず申し訳ないと繰り返していた。つい先程まで、次の小説のモデルにしようと思っている週に一度顔を出す契約農家の主婦と食事をしていて、また何かと賑やかな裏話も聞いた。オードリーが店の主人である従兄弟に色目を使っていると、オードリーに交際を断られた小男が女将に吹き込んだとか。オードリーは店の噂を書きとめているように見せながら、目の前の病弱な夫を支えて剛健に生活している養豚農家の彼女をスケッチしていた。そして彼女は男勝りの手で新聞の切抜きを渡してくれた。
「…ロマンスはあなた次第か…」
 オードリーはヴォクスホール駅が近くなったのでイングリットの方へにじり寄って行った。珠には駅前でドイツの姉とビールでも飲んでいこうと決めていた。

                                       了
べにはこべ (河出文庫)

べにはこべ (河出文庫)

  • 作者: バロネス オルツィ
  • 出版社/メーカー: 河出書房新社
  • 発売日: 2014/09/08
  • メディア: 文庫



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なっぽレオン   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 尚人(なおと)は樹氷号の車内を舐めまわすように見回した。送迎用のボンネットバスには、防寒姿も万全な十四、五人の温泉客と思しき年配が肩を寄せ合っている。外は凍てつく奥州の晩冬だった。
 尚人は大欠伸をして目尻を滲ませると、飯台に着ききった子供のようにリュックサックからお握りを取り出した。まずは終点の旅館に着くまでに腹ごしらえをする。あとはあちらに到着して、美由紀の有名な妹に面識をもった後は…義妹の相手の男を、先カンブリア紀の化石のようにとっくりと拝まなければならない。義理に則った初物づくしの顔合わせは、今更構えて行ってみたところで仕方なく、相手も生身の人間なら出たとこほいに限る。そう思ってぱっくりと頬張ってみれば、程よく炊かれた飯の間に小梅が覗いていて、梅の朱が窄めた唇に見えたかと思うと、パジャマにエプロンを被ったような妻、美由紀が立ち現れてきた。
 今朝、田無のアパートを慌ただしく出てくるときだった。美由紀はいつも騒然さを楽しむかのように歌っている。夜桜お七の一節、花吹雪ぃ♪~と小節をきかせた声が、元バスガイドの妻ながら演歌歌手の喉使いを思わせる。しかも切れ長の目を卒倒するかのように反らせて、右手の人差し指についた飯粒を、昨夜、息子の指の傷口を含んだ唇で押さえる。お握りを包んだアルミホイールを受け取った尚人は、彼女の薄桃色の唇が自分のものであることに、今更ながら生唾をのみくだしたのだった。
「帰ってきたら…火の国の女がいいな、なんて馬鹿なことを…」
 思い出したついでにそう呟いて独り照れている尚人だった。慌しくもうひとつを頬張れば、なかみは醤油甘めの鰹節だった。
「おかかだよ…くだらない洒落だけど、おっかか様はもらってみるもんだよなぁ。うまいっ、おかかもうまいなぁ。これでもうちょっと機嫌よく送り出してくれていたら…」
 そのかか様である美由紀の妹、これから会う義妹は、花巻の温泉旅館街に鎮座する大規模ホテルで働いていた。芸能部門で「ナポレオン」という芸名で踊っていたのである。
 本人は微塵も恥じ入っていないので声を低めずにいえば、義理の妹である貴美(きみ)は、先週まで「ナポレオン貴美」と呼ばれるストリップ嬢だった。宝塚ばりのベルサイユ宮殿に仕えた近衛隊長姿からゆっくり脱ぎはじめ、福沢諭吉一枚でジュスティーヌの匂いを嗅がしてくれる奥州最後の雪肌とかで、東北の温泉事情におけるその道筋では評判をとっていた。
 尚人は妻が不愉快そうに話してくれた義理の妹に会いにきたのである。尚人にしてみれば、いくら美由紀が不愉快そうに話そうとも、義理の妹のことゆえ機会があれば一度は訪ねてみたいと思っていた。しかし化石探しの貧乏助教授たる尚人が、義理の妹の生身を照覧できることなどはまずもって縁遠かった。美由紀は亭主の足取りに目を光らせているような女房ではないが、自分の用事で岩手と東京を行ったり来たりして、いささか牽制しているふうがないでもなかった。そうこうしているうちに二年二ヶ月が経っていた。
 義理の妹、ナポレオン貴美、ナポレオンとしておこう。ナポレオンから相談したいことがある、という連絡を姉の美由紀がもらったのは二週間前だった。単刀直入に、結婚したい相手がいるので唯一の近親者として会ってほしい、とのことだった。どうやら三年ほど前から、裸商売をやめて結婚してくれという申し出があったようである。そしてワーテルローの戦いではないが、ナポレオンは遂に降伏したらしい。この世で美由紀と最も近似した白肌を独占し、尚人と義理の兄弟になろうとしている男は、岩手山をうろついている世界的な火山学者、ということだった。
「とりあえず様子を見てきてよ、その火山が好きなアメリカの先生とやら」
 美由紀は夏蜜柑を口にしたように眉を寄せて言った。
「ただし、残念なことに貴美の裸の舞台、見納めのお別れ舞台はね、先週だったみたいだけれど…そんなことはともかく、お互い学者なわけね、だって化石探しと火山好きって親戚みたいなもんなんでしょう?」
 遠い親戚ではあるが…尚人はほくそ笑みながらホイールを丸めて握りこんだ。懸念は並べだしたらきりがない。まずは温泉にでも入って温まって、親戚とは程遠い火山野郎と乾杯するだけ…まてよ、尚人はホイールの銀玉をふわりと背後へ放ってしまった。慌てて後ろに拾いにいって、憤慨したような老母と目が合った。
「お母さん、お母さんだったらどっちにしますぅ?お母さんが魚だとして、住んでいる水が急に温泉のように熱くなってきたら…水っていうか、そのお湯の中にそのままいますぅ?それとも、酸素が薄くても頑張って陸に上がっちゃいますぅ?」
 関西からいらした方らしく、銀玉を放り返しながら健やかに笑って手招かれた。
「あんた阿呆ちゃうかぁ?どこに炊かれるまで待っとる魚なんておるかいな。陸に上がれるんやったら上がっとるわ。なんぼ何が薄ぅてもな、火傷は敵わんわ、火傷はあかん…そのうち湯も冷めるやろうし」

 ナポレオンが、配置転換でカラオケ係りとして勤めている大ホテルが見えてきていた。高層二棟を背にした数寄屋造りの瀟洒な正面玄関の前に、疲れたようなボンネットバスはどこか申しわけなさそうに停車した。
「ウェルカムでごぜえます。足もとのスリップにご注意くだせえませ」
 恰幅のいい白髭男が出迎えてくれた。フライド・チキン・チェーンの社長に酷似しているが、実態は初老の日本人のように見えた。ともあれフロントで受付け嬢に「いいところだね」を連発しながら名前を書き込み、ほろほろ鳥の鍋をやめて雀鯛の造りにしてくれるよう確認した。広大な館内を引き廻されるようにして、雪原に煙突ドームのような建物が望める部屋へやっと入れた。
「あれぇは地熱発電所でごぜえます」
 仲居がそう言ったのに頷きながら、暖房がよく効いていて出発が早かったので、夜更かしの尚人は眠くなってきた。それも束の間、性分とは仕方ないもので、地熱発電所の方向へ開いている窓辺で、鞄から仕事をひっぱり出して…みたものの、浪花のお母さんの言が甦ってきてしまった。
「あんた阿呆ちゃうか…そうだな、ボリスの論文なんて…アカンソステガはあかん」
 笑ってくれる人をそれこそ地中深く探さなければならないような古生物学者の駄洒落、尚人はそそくさと浴衣に着替えて大浴場へ向かった。しかし湯に浸かれば浸かるで、血行が整ってきてその気になる。デボン紀の沼ほどではなくともここは大浴場、しかもこの時刻にして他には誰もいない。想像を温水に解き放とう。尚人はもがくように怪しく泳いで熟考していった。失われた生物の尾っぽから、化石馬鹿の想像力を逸らすのは、死を言い渡すに等しいようである。アパートの狭い風呂でも、花巻温泉の大浴場でも、上陸した勇ましい生命、イクチオステガへの想いは変わらない。もちろん美由紀へのそれも変わらない。尚人は毛深い腹をゆらりと浮かばせて呟いた。
「のぼせるから上陸したとか…」
 イクチオステガの上陸の躊躇いを再現していたら、案の定、尚人は少々のぼせてしまった。
 帯も軽く締めて倒れこんだまま横になっていると、仲居が「お二人さんお見えで~す」と賑やかに入ってきた。長身の男女がのっそりと姿を現した。
 ナポレオンは、美由紀が髪を少々切りつめて若々しくなったような二十五歳だった。
「美由紀から似ているとは聞いていたけれど、こうまでそっくりだと…」
 尚人は肌蹴ていた前を合わせながら仲居にビールを頼んだ。
「まいったな…やっぱり最後の舞台が見たかったっていうか、見ていたら美由紀に怒られていたっていうか…何を言ってんだ俺は」
 尚人は上向いた鼻先が妻のそれと相似のナポレオンに話しかけながら、義理の妹の隣で箸袋を折りだした男を見ていた。
 分かっていたことだが日本人ではなくて、どう見ても尚人よりも歳上そうな中年男だった。落ち着かない銀髪まじりのチャールズ皇太子、といったところだった。そして訝りたくなるほど流暢な日本語を話した。
「ウィルと申します。よろしくお願いします」
「義兄さん、ウィルはね、かざんでぇーりゅう、火山泥流っていうのを研究しでんだよ」
「え~とですね、雪のあるところで火山が爆発すると、雪が融けて大変なことになりますね…その研究ですね」
「義兄さんと姉ちゃんは東京にいるがらな、関係ねえげんどな」
 尚人はウィルの白々とした頬を盗み見しながら頷いていた。
「そりゃ大事な研究で…とても親戚とはいえないなぁ。いやぁね、美由紀が化石掘りと火山泥流のスペクタクルを同じように見ているもんだからさ」
 ウィルは折り結んだ袋に箸を置いて餅のような手を振った。
「いいえ、私にしても趣味が登山だったものですから、山登りが地質学者とか、そういうカタガキぃ?肩書きを持っている、それだけで…たまたま学会で日本人の先生から、九州の雲仙を見に来ないかと誘われて、次に雲仙で防災を研究していた岩手の方から、岩手山を見に来ないかと…分かりましたか?」
「よぅく分かりました。それだけ話せるってことはだね、日本で教鞭をとっているんでしょう?」
「岩手では臨時講師で、あとは盛岡の駅前で英語を教えていますが…日本語は母から…母は知念、沖縄の知念の生まれです」
 互いに訝しく構えていた時間が過ぎると、尚人はナポレオンにビールを注がれながら、美由紀の妹らしい明け透けさにほろ酔いしはじめた。
「えっとね、この人ね、オハイオのデイトンだっけ?そう、デイトンという所に生まれて、若い頃はアイスランドで二十年、二十年もいでな、義兄さん、女っ気がまったくなかったって信じられるぅ?その山男が日本に来てな、岩手山に登ってみたら、なんと見ちゃったんだべさ、雪女を」
「雪女ぁ?ああ…そうか、いやぁ、火山学者っていうのは情熱的なんだなぁ。それにだよ、これだけ訛りもしないで日本語を話せるなら、二人の将来は前途洋々、前途洋々って分かる?」
 尚人は頷いているだけのウィルに向かってビール壜を差し出した。
「そうとばかり言えんのよ。問題があんの。それで義兄さんが来てくれるっちゅうから嬉しがったぁ」
「嬉しかったぁも何も、問題って?」
「問題はこの人ウィルじゃなくて、ウィルの兄さんなわけ」
「ウィルの兄さん?」
「迎えに出ていたと思うけど、下足番のテリー、あのケンタッキーの野郎よ」
「ケンタッキーぃ?オハイオじゃなかったの…ま、それはいいけど、あの唐揚げ屋の社長にそっくりなのがウィルの兄さん…」
 尚人は酸欠の鯉のように二の口を宙に浮かした。気がつけば「あさ開き」を持ってきた仲居さんが笑いを堪えている。空のビール瓶を持たせて雀鯛の姿造りがまだか促した。
「雀鯛って最近は普及したよなぁ」
「雀鯛ぃ?ああ、ティラピアね、温水で飼われでいる南米産の鯛の変態ね」
「ティラピアぁ?あれって南米産なのぅ?」
「詳しいのは義兄さんの方でげしょう。そう、ティラピアなんだけど…そいでね、飼われでいるって言えばね、早い話がね、あのケンタッキーも、テリーもね、あれもうちの社長に飼われでいるんだわ」
「飼われているぅ?」
 尚人が聞きかえそうとしたとき、襖の向こうから威勢のよい声が響いた。
「お邪魔するでごぜえます!」
 襖が唸るように引かれると、大皿を持った当のテリーが現れた。尚人はグラスを落としそうになった。
「ぴっちぴっちでフレッシュな鯛のお刺身でごぜえますよ!」
 ナポレオンはウィルの背に隠れんばかりに構えている。なぜかウィルは片膝を立てて両の拳を握りこんでいた。
「あれぇまぁ、親の血をひぐ兄弟のウィル、そして東北が誇る雪の肌、我らが、なっぽレオン貴美さん、ウィルが惚れただけあって、やっぱめんこいなぁ…こちらは?」
「何がめんこいだ…こっちは姉ちゃんの旦那さん、おめなんかどは違う大学の先生だ。それにだ、あたしはナポレオンで、あんたが言う、なっぽレオン、なんかじゃねえ」
「それはそれは…それなら我がランバート家の誇りウィルの火山研究のお仲間で?」
「違うっで、義兄さんはな、魚が陸に上がったときの化石を研究していて…ねっ、ノーベル賞を狙ってるんだもんな?」
 尚人はビールを飲み干してコップを置いた。そして「あさ開き」の四合壜をひき寄せて栓を抜いた。美由紀が自分をどんなふうに妹に伝えているのか…イクチオステガが湯にのぼせて陸に上がったにしても、ノーベル賞候補にさえ挙げられないだろうし、そもそも賞の対象分野ではない。尚人の困惑した機嫌を見かねてか、ウィルは慣れたようにテリーの襟元を掴んで廊下の方へ促した。
「わるい奴じゃねえんだけどぉ、うちの社長、ここの女社長が沖縄で遊んでいるときに拾ったみだいでな…そんで、ウィルもテリーのことを放ってもおけねえもんで、岩手山に登りがてら様子を見にきたんだべなぁ。義兄さん、冷やでいいのがい?」
 ナポレオンは、いやテリーが唐揚げ屋の笑みで言っていた、艶妹なっぽレオンは、お酌をしようと尚人の脇へ寄っていった。
                       

あ・うん (文春文庫)

あ・うん (文春文庫)

  • 作者: 向田 邦子
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2003/08
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落人   氏家 秀 [詩 Shakespeare Достоевски]

 叔父の葬儀は終わった。どこでも、葬儀の際には風穴でくぐもったような読経、拝礼、そして祈りがあるのだ、とホセは思った。どこでも、などと知ったかぶりな己の思いに小さく項垂れる。最初がイカでのマツイ家の叔父の仏葬、そして目の前にしている津和野での吉田清二の叔父の仏葬、日系三世といえども、若年もあってか二度の仏葬にしか居合わせていない。生まれ育ったペルーの乾いた土地では、刑場は無論のこと事故の多い峠道にあって、ひたすらに十字架に祈る姿ばかりが日常だった。
 ホセは縁側で脂汗の額にタオルをあてながら左足首を揉んでいた。焼香時に凄まじい足の痺れに襲われたのである。左足が爪先まで感覚が無くなっていて、膝まづいて虚しい麻痺を引きずっていった。
 断崖を落ちていった叔父の邦生にも、あの痩せた脊髄や白髪の頭蓋にも痛みを超えた麻痺が走ったことだろう。断崖を落ちていった、などと言う劇的な調子は控え置こう。急な斜面ではあったが雑木林の落ち込みで、自分や元気だった頃の吉田清二であれば擦り傷で済んだことだろう。齢をとっていた叔父には奈落だった。不慮の事故は日常の近辺で起こる、ということをホセは祖父マツイから聞いたことがあった。
 その祖父の一族であり吉田清二の外戚にあたる松井盛雄がホセの肩に手をかけた。
「清二さん、清二さんも見よったいう智(さとる)、川に沿って益田の方へ向かったんを見たもんがおるそうな」
 智は亡くなった吉田邦生の長男である。正確にはホセに突き落とされた叔父の聾唖の息子である。四十代半ばながら障害者としての職に就いても続かず、日がな近辺の渓流で釣りをしているという吉田智。ホセにとってはまさに天恵だった、ピスコの街裏で行き倒れていた議員の懐の財布を手にして以来の。
「清二さん、あんたもよくよく運の悪いお人や。石見人としての血ぃかいな…お父さん、勝さんの生まれ故郷を見よう思って、遥々地球の反対側から来られたんに」
 人を疑うということを知らない純血の日本人たちを前にして、天に召されている吉田清二を騙るホセ・ソルデ・マツイは、清二としての運の良し悪しなどよりは、清二も嫌というほど聞かされたらしい「石見人としての血」という日本語が気になった。
 祖父がそれこそ遥々持ち込んできた「石見人としての血」とは、そもそも劇的に放浪する血なのではないのか?その放浪する血が、まさに縁故の地を訪ねて、縁故の血筋の忌々しさに遭遇している…自分の肩に手をおく盛雄も、自分を囲んで随分と悲愴な吉田家の顔々も、自分のこの沸々とした苦笑が、悪徳の哄笑を偽りの清二という仮面が抑えこんだ擬音だと知る由もない。だから血など信じるものではない。
 その擬音に酷似した笑いをもって、追い討ちをかけるように盛雄の妻、美智江(みちえ)が言った。
「なんでもな、落人みたいじゃったって」
「オチュード?」
「そうや、智は長髪いうか、伸ばしきったざんばら髪で、吉田の家には珍しい禿げやから落人みたいじゃったって」
 盛雄は厭きれた以上に怒りをもって妻を睨みつけた。
「何を言ってる。清二さんに落人とか言うても分かるはずないだろう、阿呆な奴ちゃ」
 松井夫妻のやり取りがマツイの父母のそれに似た他愛もないことは感じられたが、ホセは身についていない言葉で日本を伝えようとする祖父の手の感触が蘇った。
「オチュード、オチュードは何ですか?」
「落人というのはだな、日本の大昔にあった戦争で負けた奴ちゃ。大昔に日本中が源氏、源氏のもん、そして平氏、平氏のもん、この二つに分かれて大戦争しよって、最後は源氏が勝ってだな、負けた平氏のもんが落人として逃げまわっていたわけだな、このあたりでも」
 ホセが津和野を去る前夜、智は不飲ヶ谷(のめずがたに)という所で逮捕された。その場で父親を殺めた容疑を認めたらしい。穏便に過ぎようとしている最後の夜が夢幻のように実感のないものとなった。それは甘く粘つくような日本酒を飲み過ぎたことに因るのかもしれない。
「飲めない水?」
「そうや、源氏の益田兼高いう武将は落人狩りの手を弛めんかったからな、そこの谷が狩られた平氏の落人の血で真っ赤になってな、谷の水を飲むことができんかった、そこが不飲ヶ谷じゃ」
 盛雄はホセのコップに一升瓶を傾けながら放心したように言った。
「そうは言うてもな、狩る者に狩られる者、追う者に追われる者、そんなに違いはないんじゃ。運が良いか、悪いか…石見に生まれようと、ペルーに生まれようと」

                                       了
セルバンテス短篇集 (岩波文庫)

セルバンテス短篇集 (岩波文庫)




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炭坑医   Vladimir Sue [詩 Shakespeare Достоевски]

 シャミールはロシア語に訳された事故報告書を机の端へ押しやった。そして両手で抱え込むようにして額と眼窩を押さえた。
 熱い、頬もちりちりと熱かった。昨日、チェリャビンスクで母と別れてから微熱は意識していた。こんな熱りが明日の朝まで続いているにしても、ここには這ってでも来なければなるまい。今でも診療所がある六五地区では、寒波に沿わないような発熱は忌まわしい記憶を呼び覚ます。ましてや半年前までコルキンスカヤの炭鉱医Доктор шахты
だった自分が、辛そうな赤ら顔をここの奴らに見せれば放射線話しに花が咲くだろう。
 奴ら、奴らとは若い医師たちのことだった。若い医師たちは当然ながら経験に乏しい。そして若い医師たちはおしなべて不潔である。脂ぎっていて、口髭にふけをためていて、サンダルをつっかけて海驢のように歩く姿は正しく水族館のそれだった。一掃のこと、奴らをコルキンスカヤの炭鉱へ週代わりで行かせればいいのだ。
「先生、エマ・ウェインという方がお見えで…診察じゃないそうです」
 マリアがいつもの不貞腐った顔で言いにきた。看護婦も最近は殆どが給食の小母さん顔ばかりだ。炭鉱の飯炊きと並ぶ肉体労働者だから、それはそれでよい。薄給に嘆く天使よりも、下の世話に明け暮れてきたマトリョーナを自分は求めてきた。
「入れてくれ、この時間なら構わないと言ったんだ」と言いながらシャミールは白衣の前を整えた。「生物学研究所での視察が早めに済んだら立ち寄りたいとかで、診察を終えた頃に一時間ばかり話を聞きたいらしくてね」
英語ですよ?」
「それはそうだろう、イングランドからお見えになられている御一行だから」
 マリアは出産慣れした雌の白熊のように肩を聳やかして出て行った。代わりに皮下脂肪を隈なく捜さねばならないような痩せぎすで、四十前後と思われる黒髪の英国人女性が静かに入ってきた。
 エマ・ウェインは小学校の教師だった。彼女が勤務する小学校は、火災事故を起こした原子炉が建つシースケールという村にある。村は英国北西カンブリア州のアイリッシュ海沿岸にあって、写真で見る限りは風光明美に過ぎて、ここ六五地区、南ウラル山中のオジョルスクに住むロシア人からすれば楽園風景でしかない。彼女は村で十一年生活してきて、嫌も応もなく、今は停止している発電所の火災事故の余波を目の当たりにしてきている。その最もたるものは、婚約まで交わした同僚を四年前に白血病で亡くしたことである。もちろん南ウラル建設省管轄の診療所に勤めて半年のシャミールには、一昨年から六五地区へやってくるようになった低線量被爆を視察する市民グループГруппаが、今回は英国と日本の混成としか知らなかった。
「英語にご堪能でいらして助かりました、Doctor Shamil Bogdanov」
「若い頃、ロンドンで研究をすることが夢でしたから」と言ってシャミールは椅子を勧めながら報告書を引き寄せた。「先週、電話をもらってから、ミュンヘンのヘルムホルツ・センターによる報告書を、これがそれですが、読んでみました、ただの内科医、半年前まではただの炭鉱医だったものですから」
 エマは医師の手許の机上に目を移さずに、赤らんで少々汗ばんだような額を凝視していた。
「具合が悪いのですか?」
 シャミールは一瞬ロシア語のИзлучение(放射線)を発音しそうになって苦笑するしかなかった。
「放射線Radiationではありませんのでご安心を、最近までずっと離れた鉱山町にいましたから」
 エマは受け流すように微笑んでから大振りな手帳を鞄から取り出した。
「昨日、久しぶりに母とチェリャビンスクで会って食事をしたのですが、どうも鼻ばかりかんでいた母から風邪をもらったようです」
「それはそれは、それでしたらお母さまの今日は晴れ晴れとしていらっしゃるでしょう。ご免なさい、イングリッシュらしい冗談で。チェリャビンスクって近くの大きな町ですよね?」
「ここもかつてはチェリャビンスクでした。正確にはチェリャビンスク-65と言われていました。二十年近く前に今のオジョルスクに変更されました。私は半年ほど前にここへ着ましたが、皮肉をこめて六五地区、六五地区と言っています。そんなことで、先ほども申し上げたように、最近まで炭坑医だったものですから…マヤークの事故や放射性廃棄物、それらに関わる健康被害について、実のところ多くを語れません」
 エマは教師らしい鷹揚さを見せつけるように頷いた。そして一瞬躊躇しながら足下を見ながら話しだした。
「私の父も、近隣にあるホワイトヘヴンという炭鉱で医師として働いていました。そうです、ホワイトヘヴン、聞かれたことがありますか。一九八四年まで働いていました。当時の石炭庁の総裁、イアン・マクレガーが一七四抗のうち採算のとれない二十抗を閉鎖すると…憶えていますよ、私はもう十歳で、父の落胆と怒りを前に、母が『一七四抗のうち二十抗』を暗唱しているような晩が続いていましたから」
「Доктор шахты、失礼、炭鉱医Mine doctorだったわけですね」
「そうです、炭鉱医から原発事故の村へ、悲嘆に暮れているひまもなく、より困難な現場へ単身で向かっていったのです」
 エマは手帳の裏表紙に挟んだ写真を大事な枯葉のように差し出した。
「真ん中の幼女が私で、私を膝にのせているのは祖父です。五十年近くも炭鉱夫Coal minerを続けてきて、私たち家族を養ってきて、背後に立っている痩せた男性が父ですが、学業優秀だった父がロンドンの医科大学を卒業して医師になれたのも、黒ずんだ手をしていた祖父の働きによるものでした」
「ロンドンの医科大学とは?」と目を上げてシャミールは続けた。「キングス・カレッジですか、やっぱり。そうです、極東Дальний Востокで、ハバロフクスクの極東医科大学で実習に励んでいた頃、犬のようにロンドンからの情報に飢えていました。キングス・カレッジは憧れであり…ジェームス・ブラックをご存知ですか?シメチジン、H2ブロッカーとしてヒスタミンH2受容体遮断薬として開発されたシメジチンです。それだけに限りませんよ、狭心症の治療薬としてのプロプラノロールの発明とか…失礼、ロンドンからの情報に興奮していたあの頃が蘇ります」
 エマは最近まで炭鉱医だった男の細い指先が踊る様に眼を細めた。
「何処の国でも医師は情熱家なのですね。父もキングス・カレッジでの思い出を語るときは楽しそうでした」
 シャミールは項垂れるようにして熱った眉間を摘んで苦笑した。
「お父さまとは比較になりませんよ。お話しの感じですと、お父さまは医師への道を支えてくれたお祖父さまの許へ帰られたのですね。さすがに七つの海を制した大英帝国、父親がやはり立派な父親、男らしい男でいらっしゃる」
 エマは返された写真を受け取りながら教師らしい嗜める目尻で言った。
「ロシアの男だって、立派な父親、男らしい男ばかりでしょう」
「カラマーゾフの連中みたいな男ばかりですよ。私の父は言わずと知れた呑んだくれで、みごとに氷点下の晩に凍死しました。母はその報せを聞いた翌朝、ほっとしたような顔で重機を操るために仕事場へ向かいました」
 シャミールは涙目になって謝るように両手を合わせた。
「私は炭坑医などになりたくなかった。分かるでしょう?研究者になりたかった。しかし…論文を改ざんした容疑で、ソヴィエト時代のように鉱山Шахтаへ送られたのです。お父さまは炭鉱医、ロシア語で言うДоктор шахтыだった。いいですか、私は炭坑医Докторь туннелеだったのです。坑道Туннельの中へ炭坑夫と共に入って、暗がりで裂傷や塵肺の坑夫を診てきました、それこそ戦場の衛生兵のように。半年ほど前に、知事の恩赦とやらで出てこれました。坑道でなければどこでもよかった、ここチェリャビンスク-65でも、放射性ストロンチウム90で汚染された湖の畔でも」

                                       了
馬のような名字 チェーホフ傑作選 (河出文庫)

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  • 発売日: 2010/03/05
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